「自画自解」 画業50年展 展示作品の解説 岡本流生
この50年の間に制作した版画は500点を超えます。その中から自分の好きな作品、特別な思い入れのあるもの、或いは世間的に高い評価を頂いた作品を自選しての展示です。
そのため、「自画自解」と言いながら、時に「自画自賛」となってしまうのはどうかご容赦を。
1. 小枝1−B 1990年 12版
昭和57年に、版画集 「花女童」163部限定 (沖積舎企画・出版) を出した時、その帙に貼り込む表紙として制作したものを、後にデザインの一部を改め、独立した作品としたもの。 技法は木版、シルクスクリーン、合羽版の混合技法。 この版画集は、5点のオリジナルを一組にセットし、箱を付けたものですが、今でも時々内外のネットオークションにばらされた作品が単品で出てきます。
2.EXLIBRIS (姉妹) 1978年 12版
EXLIBRIS (蔵書票)は元々は愛書家が自分の蔵書であることを示すためにその奥付に貼り付けた小さな紙片のこと。 その後、版画による凝った図柄のものが現れ、コレクションや交換の対象となりました。
大きさに特に規則は無いのですが、奥付に貼るという本来の性格から、小さなサイズが普通で、葉書サイズ以下と言うものが大半。小さくて美しいものが多いためか、「紙の宝石」とも呼ばれます。 日本の多色木版画によるものはコレクターの間でも特に人気が高いようです。
また、蔵書票は普通コレクターからの依頼により制作されます。注文主は自分の職業や趣味などに関係する図柄を指定する事も多いようです。私の場合は、“エロチックな図柄で”との注文でこれまでに6点制作しました。
2006年 スイスの美術館で EXLIBRIS愛好者の世界大会が開催されました。その折、私が制作した蔵書票5点が会場に特別展示されました。作品はその後フランスでも展示された後、スイス、フランス両国の美術館に収蔵されました。
その時のテキストには、私の作品についてこう書かれてありました。・
・・・版数18版、摺り度数40回は蔵書票としては稀有の物である・・・・岡本が作る蔵書票について一つ不満を述べるなら、それはその価格が極めて高価であるということ・・・・
確かに、100枚の注文生産で数万と言うのが相場の中、私の作品の場合はその十倍はするのですから。 まあ、それだけ手も込んでいるのですが。
この「姉妹」について述べると、まず、バックに焼けた箔を用いているのが珍しいと思います。蔵書票に箔を使っているのは殆んど無いのでは? 少なくとも私は見たことがありません。 また、右下の鴛鴦、普通なら番で描かれるこの鳥を、雄雄としたところにデザイン上の私の仕掛けがあります。
余談ですが、スイスでの世界大会以後、アメリカやヨーロッパのコレクターからの注文が相次ぎました。 当時は初恋シリーズに専念していたため、お断りしたのですが、将来的にはまたやってみたいと思っています。 何と言っても小さな画面の制約の中で色々工夫や腕を振るうのは挑戦的で楽しい仕事なので。
3.絵葉書北海道 シリーズ「絵葉書北海道」より、表紙
このシリーズには20点ほどの作品があります。中学3年から高校2年の間に制作。
私は、14歳の時、川上澄生の「北海道絵本」に魅了され、木版画を彫り始めました。始めの二三点は絵本の中の澄生作品の摸刻。 その後直ぐに自身のオリジナル作品を作り始めたのですが、その第一号がこの「絵葉書 北海道」のシリーズです。
東京での生活の中、少年の私が、故郷北海道を懐かしむ思いはかなり強く、絵葉書以外にも多くの北海道の風景を版画にしています。
この絵葉書シリーズを、高校3年(?)の時に、神田にあった絵葉書専門の出版社に持ち込みました。 採用はされなかったのですが、高校生の飛び込みの営業に驚いたのか、社主が親切に対応してくださったのが思い出です。
図柄に関しては、写真を参考にして描きました。 両親が、兄、私、妹の成長の記録を一人ひとりのアルバムにしてくれていたのです。 今ではなんら珍しいことではありませんが、まだ戦後間もない時期と言うことを考えれば、とても幸せな事だったのではと思います。
4.少女図
昭和56年 同人誌仲間の詩人 橋本今朝治が、詩集 「少女幻遊行」(沖積舎)を出すことになりました。 装丁と挿画を私が担当する事になり、この作品はその特装本のために制作したものです。 小品ですが摺りには特別に気を配り、良い雰囲気に仕上ったと思っています。
5.Nao 試作 シリーズ 「Nao」 より。
シリーズNaoは、私の二十二歳から24歳頃の作品群。妻をモデルとしたもので総点数は50点を越えます。
この作品は、“木版画でリトグラフのような表現を作り出す”事を目指した実験的な試作。 かなり上手く行ったと思っています。 その後もっと大きな作品もこの方法でやっています。
この技法で制作した版画はどれも試作のみで、私の元に1点、そしてオスロの国立文化歴史博物館に1点あるだけです。
6.ピエロ(顔) 試作
シリーズ「ぴえろ」より。ピエロのシリーズは、十代の終りから始まり今も続いているシリーズです。 初めは白黒でその後は多色で。
この、ピエロ(顔)は一版の木版の一度の刷りで、銅版画のメゾチントのような、色々な階調の黒を出すことが出来ないものかと試作したものです。結果は気に入っているのですが、何枚か摺ると、どうしても画面の調子が少しずつ違ってしまうのが欠点。 ただ、それはそれで面白いとも考えています。
この技法による作品も何点か有るのですが、全て試作のみ。私の持つもの以外にはノルウェーの博物館にあるだけです。
7.別れの日 シリーズ「アジアの子供たち」より インド グジャラート州 1999年
シリーズ「アジアの子供たち」は1995年のCWAJ現代版画展 40回記念展に於いて版画家奨励賞を受賞。(授賞式には皇太子妃殿下 雅子様がご臨席)
この賞は五年に一度、国籍、版種に関わらず、二人の版画家に与えられるものです。また、個々の作品に対してではなく、それまでの実績や今後の成長への期待(?)に対して与えられるもので、受賞者は海外留学や研修、或いは取材と言った活動に助成金を受ける事ができます。
また、受賞の5年後には、その成果を示すための個展をアメリカンクラブで開くことが求められます。私の場合はこの助成金を使いアジア各国へ取材へ出かけました。もう一人の受賞者はスペインへ留学しました。
さて、この作品 「別れの日」には、私の個人的な思い出が隠されています。 周りの枠の中に書かれているのですが、解読できますか? このような隠し文字は私のよくやることで、単調な時間が続く彫りの作業の中の一つの遊び、楽しみにもなっています。
8.Lucky Lips 2005年 8版
初孫のK君を描いた作品です。 8時20分を指した眉は“ちょっと困ったくん’顔。 これは息子の幼い頃とそっくりで、版を彫っている間にも、思わず笑ってしまいました。
題名は昔聞いた歌の歌詞からとりました。母親が幼い息子に、お前はLucky Lips を持って生まれて来たのだから四葉のクローバーや兎の足のような幸運のお守りが無くたって、一生寂しい思いや一人ぼっちの辛い目には会わないんだよと唄っていた・・・・・・・ような。英語の歌なで・・・・多分そんな歌だったと。 (違っていたらごめんなさい)
このKくん、今は小学生。 学校の作文に「将来は化石を掘る人になりたい・・・・」と。 実は私も小さな頃から化石や鉱物が大好きで、出来れば化石ハンターになりたいと思った時期もありました。 息子は私が集めた化石にはあまり興味を示さなかったのですが、孫には私の化石好きの性格が遺伝(?)したようで嬉しく思っています。 孫のために、化石に関する新聞記事をせっせと切り抜きしている“じじ馬鹿”な私です。
9.窓辺のNao シリーズ「Nao」より
50点を越えるシリーズの中でも、私が最も好きな作品。一緒に暮らし始めた頃の彼女を100%そのままに描けたと感じています。ただ、今見ると、私に背を向けて窓の外の世界を見ている姿が、その後の私達の関係を暗示しているかのような皮肉も感じてしまうのです。
私が表紙を担当していた同人誌に、時々詩を発表していた彼女。その詩にはあまり心惹かれなかったのですが、彼女の容姿と性格には強く心が動いたのでした。
大学4年の秋、親の反対を押し切り結婚。 当時私は横須賀の農水省東海区水産研究所で卒論の研修中。 その下宿先で私達の新婚生活は始まりました。 六畳一間に四畳半の台所とトイレが全て。 家賃7千円のおんぼろアパートに風呂は無く、バイクに二人乗りして近くの銭湯に通う生活でした。
彼女との生活の中でシリーズNaoは生まれました。 またその後の長い暮らしの中で、私が彼女に抱いた愛情や嫉妬、或いは彼女のもたらした喜びや悲しみ、それが他のシリーズを生み出すきっかけともなりました。 例えばUkiyoe-Today, 初恋などはまさに彼女が描かせたものです。 また、ピエロシリーズの後半の作品にも彼女は大きな影響を与えています。
その意味で、Naoは私にとっての創造の源、ミューズとも言えるのです。
10.玉のり シリーズ「サーカス」より
シリーズ・サーカスは十代の終わりごろから4年ほどの間に作られました(但し、多色木版の「少女曲技図」の3点を除く)。総点数は20点ぐらいだと思います。 玉乗り、空中ブランコ、曲馬、綱渡り、猛獣使い、たる回し、一輪車 怪力男・・・・
クラリネットの奏でる哀調あふれた「天然の美」、そんなイメージのレトロなサーカス。 絵は全て心の中に浮かんだ想像で描きました。
子供の時に一度だけそんなサーカスを見たことがあります。 木暮サーカスだったか、木下大サーカスだったか?
11.美麻にて シリーズ「風景」より 1980年 12版
40年ほど前の話です。 旧美麻村(今は大町市美麻)の廃校となっていた旧美麻小中学校が私の版画の師であった吉田遠志先生に払い下げられました。
先生は、その校舎を芸術・文化活動の拠点とする事を考えられ「遊学舎」を設立。ご子息の比登志さんが責任者として運営に当られました。
先生御自身は体育館をアトリエとし、世界最大の多色木版画の制作に入られ、私も何度かそのお手伝いをしました。
その後、先生のご縁で、美麻村とカリフォルニアのメンドシーノ郡が姉妹村となり、その記念の版画集を制作することが計画されました。 弟子の私達にもお声がかかり、私は「夕景色」、「秋風」の二点の美麻風景を制作しました。 ここに展示したのはその内の「夕景色」です。ただ、版画集自体は、理由はわからないのですが、結局刊行されませんでした。
メンドシーノでは、私も木版画の講師を務めました。アートセンターに家族で寄宿したひと夏は、我人生最良の日々と言えます。独立記念日のパレードに、和服の妻と幼い息子二人が「美麻・メンドシーノ姉妹村」と書かれた横断幕を掲げたオープンカーで参加したのも忘れられない思い出です。
この美麻とメンドシーノとの交流は、美麻村が大町市と合併した後も続けられ、今では毎年数十人の子供達が相互に訪問し合う大きな事業になっています。
最後にこの版画の技術的なことを一言。 墨版(黒で摺られている版)は木ではなくパフボードを使用。これは学童の美術教育用にと開発された合成樹脂版で、柔らかく彫り易いのが特徴。細かい図柄にも向くのですが今は生産されていないようです。
12.母のアルバム No.2 No.4 シリーズ「母のアルバム」より 1981年
この作品にエッセイを付けて母の誕生日に贈りました。もう随分昔の事です そのエッセイをそのままここに転載します。
『まだ少年だった頃の話です。 私は母のアルバムを見るのが好きでした。母は十三人姉弟の下から二番目。九州は若松の豊かな商家に生まれました。末の妹の母の横には、いつも美しい姉達。 色褪せたセピア色の写真の中で、そこだけは陽射しを受けたように輝く母の横顔。ハイカラな洋服。
母の愛したレコードは七十八回転の「別れの曲」。 北海道の長い冬、ストーブの暖かく燃える部屋でいつもその曲を聴いていた母。 追いつけぬ速さで回るレコードのように、時もまた回りまわって、残されたものは、奇妙に軽い母のアルバム』
母はとても喜んでくれ、応接間の壁にその絵を飾りました。 その母も今はいません。
ここで絵の内容に触れておきます。 実際にこの絵のような写真が母のアルバムの中に有ったわけではありません。 絵はあくまでも私の想像で描いたものです。技術的には彫り方にまだ川上澄生の影響が見て取れます。
13.化石 No.7 シリーズ「化石」より 1997年 13版
このシリーズはメンドシーノのアートセンターで第一作を作りました。 受講生達(中学や高校の美術教師、版画家を目指す人、退役したお年寄りなど)に多色木版画の制作方法を理解してもらうために教室で実演制作をしたものでした。
このNo.7のトンボの妖精には面白いエピソードがあります。 或る日、私はちょっとした悪戯を思いつきました。 この版画の墨版を薄い和紙に刷り、妖精の部分だけを切り抜きました。 それを、コレクションの中の化石の、何も無い石の地の部分に貼り付けたのでした。 乾いた後、筆で丁寧に彩色し、更に細かい砂をなすり付けておきました。
本棚に並べた様々な化石のコレクションの中に、さり気なくその偽物を置き孫に見せると・・・・
孫は目を丸くして 「うわぁ、おじいちゃん、妖精って本当にいるんだね!」と。 もちろん、今は信じていませんが。
14.早春 (2)
私には年子で生まれた二人の息子がいます。そのこたちが小さかった頃は、よくモデルにしたものでした。 画室でポーズを付け描くのですが、動かないように一生懸命ポーズをとり続ける姿は、今思い出しても心が幸せに満たされるほど可愛らしいものでした。
描きあげたデッサンはそのまま版画になることもあるのですが、多くは完成すると、ピエロや女の子の姿になっていました。
この「早春」を描いた時もそうでした。 モデルをしてくれた息子に「もういいよ」と声をかけると、緊張から解放されて、ポーズを崩した息子が私に言った言葉、その一言が忘れられません。
「どうせまた女の子になっちゃうんでしょ」 と。
15.切口赤き鮭の・・・・・ シリーズ「父子抒情」より
父、嘉一郎は短歌を詠むひとでした。東京帝国大学在学中に短歌を作り始め、戦地にあっても歌を詠み続けました。戦後は室蘭の製鉄所に勤務しながら、職場の短歌誌「社宅街」を主宰したりもしました。
昭和三十年代、それも早い頃の話です。父は当時歌壇の登竜門と言われた「短歌研究」(角川出版)の50首詠に応募し、第二席に選ばれました。 この50首詠では、中城ふみ子(乳房喪失)や寺山修二(チェホフ祭)が第一席を取り、華々しいデビューを飾っていた時代のことでした。
その父は、しかし、転勤で東京に移った頃から次第に歌を詠まなくなり、やがて全く止めてしまいました。その理由を話すこと無く父も亡くなりました。
この「父子抒情」のシリーズは、父の室蘭時代の短歌の中から特に私の好きなものを選び、版画11点を添えて1974年に文芸同人誌「在」に発表したものです。
この歌以外の私の大好きな歌も載せて置きます。
穴にひそむ獣らのごとあひよりて眠らんよしんしんと雪はふるなり
はぐくまれきて露地にのこすはなんの夢夕暮子等唄う“青い山脈”
こほりたるわが頬を掌もてあたたむる妻の仕ぐさよ日日あたらしき
冬眠の姿勢もおのずから身につけばさびしき心寄せあいて生く
夜の雪踏めばさやかにきしむ音明日もまた清潔に生きてゆくべし
16.緑の谷の少女 シリーズ「アジアの子供たち」 (ブータン) 1996年
CWAJの奨学金を得て精力的にアジアの国々の取材を進めました。ブータンもその内の一つです。 特に憧れのあった所なので、この時の取材旅行はとても思い出深いものとなりました。 同行していた妻が途中で体調を崩して寝込む(高山病?)というアクシデントはありましたが。
受賞5年後のアメリカンクラブでの成果報告の個展の時には、各作品に日本語と英語の作品解説が付けられました。 それをここに転記いたします。
緑の谷の少女 ブータン
飛行機は山々の稜線をかすめるようにパロの谷へ降りていきます。
ヒマラヤの麓の小さな国ブータンの夏、谷は緑に輝きます。
人々は男も女も日本の和服によく似たものを着ています。
テレビもあまりない国なので、子供たちは日の暮れるまで外で友だちと遊びます。
石けり、、凧揚げ、馬とび、輪廻し、ゴムとび・・・どれも昔やった懐かしい遊び。
そう言えば服装だけでなく、顔つきも、歌も、数字のかぞえかたも日本とよく似ています。
ブータンは遠くて近い国なのです。
最後にこの作品で私が最も気に入っている事をお話しすると、それはこの少女の笑顔。少しはにかんだような表情がこの作品の全てで、ブータンと言う国の素朴な人柄の温かさを代表しているように思えるのです。 この笑顔に出会えただけでも、この時の取材旅行には意味があったと言えるでしょう。
17.Love me (B) シリーズ「ピエロ」より 1983年 10版
題名は直訳すると「我を愛せよ」 白黒版画の時代には何点かの自画像があります。 多色の作品には自画像は一点もありません。 その代わりに、ピエロシリーズが私の気持ちを代弁するようになりました。 ピエロは謂わば“多色時代の自画像”とも言えるものです。そしてその殆んどが妻へのメッセージを含んでいます。
題だけを見てみると、この「我を愛せよ」 そして「嫉妬」 「我をわするな」 「手紙」 「想像してごらん」・・・・・原題は英語ですが。
この作品「Love me」 は珍しく下絵が手元に残っています。 他の大半の下絵はノルウェーに寄贈して私の元には無いのですが、この下絵は意識的に残したのでした。 今その下絵を見てみると、画面のバック左半分に妻にあてた詩が書かれ、1983,4,22の日付が添えられています。また題名のところへは Love
you と。 喧嘩した妻への手紙として、彼女の目に付きやすい所へ置いておいたものです。
それで仲直りが出来た時代は・・・・もう再びは来ないのでしょうか。
18.ピエロ シリーズ「ピエロ」より 1980年
CWAJ現代版画展25回記念展に於いて、開会式にご臨席された美智子妃殿下(当時)にCWAJより献上された作品。
ここでCWAJ現代版画展について説明しておきます。 私の理解に間違いが無ければ、戦後、日本の女子学生の海外留学を支援しようと、アメリカ人の婦人が中心となり、ボランティア団体としてCWAJは設立されました。
そして、資金を得るための活動として始まったのが版画の展覧会でした。 その売り上げで女子学生の留学を支援すると同時に、版画家をも支えることになったのでした。
CWAJ現代版画展は今では日本を代表する展覧会の一つに数えられます。 版画協会、板画院、或いは日展や春陽会、国画会と言った団体の垣根を越え、若手や大家と言った枠にも囚われない作品本位の選考にその特徴があります。
アメリカンクラブの大広間で開かれる開会式には、女性の皇族がたがご臨席されたり、各界の著名なかたがたが集まるなど、とても華やかなものです。 三十代になったかならないかの時、初めてこのオープニングに招かれた時には、「これで自分もやっと一人前の版画家になれたのかな」と思えたものでした。
また、カタログが素晴らしく、どの展覧会でも白黒が一般的な時代、CWAJのカタログはオールカラーで作品もゆったりと配置され、さらに作家の顔写真と共に、プロフィールも日本語と英語で表記されていました。 毎年丁度私の誕生日(10月3日)前後にこのカタログが送られてくるのですが、それは私にとっては何より嬉しいプレゼントに思えたものでした。
私は、CWAJによって版画家になれたのだと、そう思っています。
この日、私と妻が別室に控えていると、お付の方々を従えて美智子様が入って来られました。美智子様は既にカタログを見られていたのか、展示された私の別の作品「内気なピエロ」について、「どうしてこのピエロは手紙を持っているのですか」と優しい笑顔でお尋ねになられたのでした。
思い出話はここまでにして、今回展示した作品について述べます。技法的には木版、シルクスクリーン、合羽版の混合技法。 バックの表現に独自な工夫があります。
またこの作品には、サインと共に、息子へのプレゼントである旨が書かれています。美智子様に献上されたこともあり、限定枚数を全て売り切り絶版となった後、私の手元に残った作家保存用の10枚ほどに、妻と息子達のために記念として残す意味で書き込みました。
余談ですが、その後どうしてもお金がいることがあり、妻と、私自身に残した分は手放してしまったのでした。
19.ブリキの玩具 No.3 シリーズ「ブリキの玩具」より 2013年 9版
初恋シリーズも50点になろうかと言うころです。中学生の時から十年以上にわたってそのモデルを務めてくれていたSちゃんが結婚しました。 招かれた式で、純白のウエディングドレスに身を包んだ彼女に迎えられたときには、そのあまりの美しさに息をのんでしまいました。
最愛のモデルを失ったことに加え、シリーズのあまりにも張り詰めた、緊張の連続を強いられる彫りにも疲れていた私は、しばらく初恋シリーズから離れ、他の作品を作ることしたのでした。 できれば版画を始めたころのように楽しくやりたいものだと。
初心に帰ろうと、川上澄生の画集をめくっていた私の目を捉えたのが、澄生の玩具を描いた作品でした。 私も玩具をやってみよう! それもブリキの玩具を! 玩具なら、初恋のように、まつ毛や髪の毛や指先と言った繊細な彫りに神経を擦り減らすことも無いだろうし。 何より楽しそうじゃないか。
こうして始まったこのシリーズの原則を、前もって決めました。彫りはそこそこの程度で無理をしない。色は原色を多く用い、明るくポップに。そして摺りでも、ぼかしなど煩わしいことは止め、単純にいこうと。
これまでに完成したのは8点。 狙い通りの明るく楽しい作品になったと思います。また、1点で見るよりも、何点か並べてみるほうがよりこのシリーズの良さが出るようにも思います。
さて、休息は十分! 気力も充実! そろそろまたやっかいな仕事に戻ろうかな。 ただ・・・・モデルはどうする?
20.夢 シリーズ「アジアの子供たち」より 1977年 9版
モデルは私の二人の息子。 彼らもアジアの子供の一人なので。 アメリカンクラブでの個展の時にこの絵につけた解説を転載します。
夢 日本
あなたが今までで一番幸せだったのはいつですか。誰かが私に聞いたとしましょう。幾つもの幸せの中からどれが一番かを決めるのは少し難しいことです。
でも改めて振り返ってみると、私にとっての一番はこの絵を描いた頃です。.可愛らしい二人の息子に恵まれ貧しくても楽しかった日々。ただ、年子の男の子ふたりの子育てに追われていた妻は違うことを思うかも知れません。
この絵の二人もあれから幾つかの山と河を越え、今は立派な青年になりました。でも私の夢に出てくる二人はいつもこの絵の頃のままなのです。
技法的な事も付け加えておきます。 彫では、ピンクのタオルケットの部分に、私独自の工夫があります。柔らかい質感を出す為に考え出した新しいやりかたです。、この技法は更に進化し、後の化石シリーズにも用いられています。
また、摺りでは、背景の部分に雲母(きら)を用いています。 写楽の浮世絵にも用いられているきら摺り。 柔らかい光がこの絵の雰囲気に良く合っていると思っています。
21.Ukiyoe Today No.7 シリーズ「Ukiyoe Today」より 1974年 8版
吉田遠志先生に師事し、伝統的多色木版画の勉強を始めて半年ほど経ったころ、このシリーズが始まります。
当時、若者達の性風俗の乱れが問題視され始めていました。 “風俗” と言えば浮世絵。この若者の風俗の乱れとやらを版画で表現できれば、それこそ新鮮でモダンな“現代の浮世絵”が描けるのでは? こんな思いで始めたシリーズです・・・・と書けば・・・・・・・これは当たり障りの無い表向きの綺麗事。
実際は、Naoとの生活の中で感じた抑えようの無い嫉妬、怒り、悔しさ、言い換えれば傷付いた心が私を衝き動かしこのシリーズへと向かわせたのでした。発表当時のタイトルは「今様」 これを後に今のタイトルに改題しました。
このシリーズで翌年、版画協会展に初応募、初入選。 その後も同シリーズで入選をかさね、初入選から3年目に準会員に推挙されたのでした。
またこのシリーズ、身内以外に作品が売れた初めてのものでもあります。 その買い手がドイツ大使館の書記官で、後に彼からは“蔵書票”なるものの制作を依頼されることになるのでした。
シリーズは全19作品。 但し、完成作品として残っているのはその内の10種ほど。版木も、保管場所としていた押入れに雨漏りがあり、気づいたときにはもうぼろぼろで捨てるしかありませんでした。 この時は一緒に積んでおいた白黒時代の版木も随分捨てました。
ここで、昔書いたエッセイから、版画協会展への初応募の時の、私の高揚した気持ちが書かれている部分を抜き出しておきます。
・・・・・・私は背中に版画をくくりつけた背負子を担ぎ、両手にも版画を提げて、上野公園の道を急ぎ足で歩いていました。 桜の開花ももう間もなくと言う頃の事です。
公募展への初めての応募。動物園の壁に沿って都美術館裏の搬入口へと続く道には、同じような荷物を抱えた人達が黙々と歩いていました。 搬入口の横には大きな掲示板。二週間後にはそこに入選者の名前が張り出されるのです。
日本版画協会展。
平塚運一、谷中安規、恩地孝四郎・・・・創作版画の歴史に名を残す、私にとっては神様のような大先輩達。 今、私はその後に続く一粒の種になろうとしていました・・・・
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