22.ウズベクの少女   ウズベキスタン  シリーズ「アジアの子供たち」より 1998年

  「アジアの子供たち」の中でも、私が最も好きな作品の一つ。 この作品の魅力は、この少女の意志の強さを表すような目に宿る力と、引き締められた口元にあると思っています。

人物を描く時、どんなに細部の意匠が素晴らしくても、顔に魅力がなければ、絵としては成功したとは言えません。 そして、その魅力ある表情に、“版画で”仕上げることがまたとても難しいのです(下絵ではどんなに上手く行っていても!)。 ですから、この作品のように、思い通りに出来た時は本当に小躍りするほど嬉しくなります。

技術的なことを述べると、まず、衣装の質感にこだわりました。 柔らかいスカーフやブラウスと、厚手のデニムのスカート、そして襟元のレースの違いを出せるようにと、色や版の組み合わせに心をくだきました。

またレースの部分には、気をつけて見なければ分らないほどの細かな空押し(版に色を乗せずにバレンを強く当て紙の表面に凹凸をつけるやりかた)を入れて有ります。 バックにも手間がかかる刷り込み法を用いてあります。これは私独自の表現です。

以下は、発表時にこの絵に付けた説明です。


             ウズベクの少女   ウズベキスタン


中央アジアの夏の暑さは半端なものではありません。日中の気温は軽く40℃を超えます。顔に手ぬぐいをまき、貴重なミネラルウォーターを時々頭にかけながら歩きます。

そんな時、数人の子供たちが手に手に何かの草を抱えてやって来るのに出会いました。その中の一人の子の赤いスカーフが目にとまり、早速モデルを頼みました。

弟たち?とさらに四、五人の子供たちが集まってきました。何かからかう中、この少女はキッと遠くを見てポーズを取ってくれました。

それにしてもこの国では女の子も多くが坊主頭に刈り上げているのには驚きました


23.思春  シリーズ「初恋」より 2012年  13版

 これも好きな作品。 ポーズも美しく、顔の表情も思春期のもの思う少女の表情が出せたと自分では思っています。

 モデルは塾の教え子のUちゃん。(正確には塾生ではなく、高校受験が近づいた頃、塾生の友人と夜我家で特訓を受けた子です。『月謝は払えないけど、友達と一緒に来て、教えて貰ってもいいですか』と) まあ、月謝は貰えなかったけど、その分何度もモデルをお願いしたのですから帳消しですね。

この絵の時は、衣装は彼女が自分で知り合いから借りてきてくれました。(色や柄はこの絵とは違いますが)

さて、この黒猫。 わが最愛のクロスケ! (名前はクロスケでも実は女の子) 私の絵の中に度々登場します。

妻の父親は獣医でした。 小さな頃から動物と一緒に育った彼女は大の猫好き。そのため、我家には妻が拾ったり貰ったりしてきた猫がいつもいました。 けっして動物好きとは言えなかった私(実は犬は噛むもの、猫は引っ掻くものとばかり思っていて、少し怖い気持ちがあった)も、いつしか猫好きの仲間に。

そして、このクロスケは、数いた猫の中で、唯一妻よりも私に懐いた猫。動物とでも心が通い合うと言うことを教えてくれた猫でもあります。そのクロスケ、 ここ清内路で空き家を見つけ落ち着くまでと言う約束で預けてあった息子のマンションから或る日逃亡。以来行方不明に。

私に会いたくて、外に探しに出たのでは? と言うのも、このクロスケ、夜、塾の仕事から戻る私の自転車の音を聞きつけると、何処にいても、「ニャア」と叫んで飛び出して来るほど私をいつも待っていてくれたのですから。 


24.南島祭図 (ニ)  1982年  12版

 この南島祭図には4種の色違いがあり、それぞれイロハニの記号が題名の後に付けられています。(但し、イは初刷りの10枚のみ、ロも40枚ほど) 版さえあればこのような色違いを作ることが出来るのも版画の面白いところと言えるでしょう。

1992年、CWAJは本展の現代版画展とは別に、“着物”をテーマとした版画展を開くことを企画しました。アメリカンクラブのロビーフロアを会場とするこの企画展には、6名(私の記憶では)の作家が招待されました。

池田満寿夫や森義利と言った大家や著名な版画家に混じって、私もその6人のなかの一人として招待されたのでした。最年少だったと思います。そしてこの時の展示作品がこの「南島祭図」と「古都祭図」でした。 

オープニングには、秋篠宮妃殿下紀子様が来賓としてお見えになられました。 私はそのご案内係を仰せ付けられ、会場の作品のご説明をいたしました。

また、この作品はその後、JALの機内誌など色々な雑誌に紹介されたり、CWAJのカレンダーに採用されたりもしました。 私の作品の中でも人気のある作品となっています。

技術的には髪の毛の彫りがたいへんでした。また空押しも用いています。


25.化石(6)  シリーズ「化石」より 1996年  12版

 この絵の魚はシーラカンス。 小田原にある神奈川県立「生命の星地球博物館」に実際にある化石です。とても美しい化石で、ひとめで気に入りました。(但し、妖精は乗っていませんが) その縁で、完成後に一枚、その博物館に寄贈させていただきました。館内の何処かに飾ったと聞いています。

さて、ここで博物館、美術館の作品収蔵について少し書いておきたいと思います。 収蔵に至るには幾つかの道があるようです。

1.作家本人の寄贈による。 私の場合は、この「生命の星地球博物館」やオスロの「文化歴史博物館」がこれにあたります。 この場合、作家本人は収蔵作品について把握しています。

2.展覧会の応募要項に「展示後、作品はその美術館に寄贈される」と言う条件付の展示会に出品するケース。 私の場合はCWAJのオーストラリア特別展がこれに当り、作品はニューサウスウェールズ州立美術館に収蔵されました。これも把握できるケース。

3.美術館を会場に企画展を行った主催者が、展示後にその内のいくつかの作品を寄贈するケース。私の場合はスイス、フランスでのEXLIBRIS国際大会での展示品がこれにあたります。 (美術館の名前は失念) 主催者、もしくは寄贈を受けた美術館側からの連絡があって初めて収蔵を知ることになります。

4.美術館が作家から直接購入するケース。 私の作品では、White Fox (Picnic) がニュージーランド国立美術館に収蔵されたのがこのケースにあたります。

5.美術館主催の展覧会で「買取賞」を受賞し収蔵されるケース。  私の作品にはありません。
6.美術館が画商から購入したり、コレクターやその遺族から作品の寄贈を受けるケース。 このケースが作家にとっては一番把握し難いといえます。 私の場合はピエロなど何点かの作品がアメリカの大学付属の美術館(?) (名前は失念) に収蔵されています。 この事が分ったのは、美術館側から、作品をカタログに載せたり、絵葉書にする際の許諾を求める手紙が届いたからでした。

最後に、私の化石に寄せる思いを書いたエッセイから。


銀河や化石や鉱物に夢中になるのは、とてつもなく遥かな距離と時間の中で、自分を限りなく小さな存在に思わせてくれるから。そう思うことで「どうせちっぽけな俺だもの」と、何が起こっても開き直った気持ちにさせてくれるから。私はそう思います・・・・・

できるなら化石採集人になりたい。日がな一日地面に座り、誰にも会わず何も考えずにただコツンコツンと石をたたいて暮らしたい。そのための場所も幾つか調べてはあるのだけれど・・・・・


26.君ありて我あり
 (川上澄生に捧げる)  2002年

 川上澄生の命日は「洋燈忌」と呼ばれます。彼の好きだったランプに因んでの名前です。 (ちなみに、誰かが私の命日に何か名前を付けてくださるなら、私は「初恋忌」と呼ばれたい。 絶対に「う〇こ忌」はいやです! いくらここ清内路で、う〇こ先生と呼ばれていてもです!)

この作品「君ありて我あり」は、平成14年、第30回の洋燈忌(正式な洋燈忌としては最後になるもの)に於いて、澄生の霊前に捧げたものです。(その後、ご遺族に寄贈) 

絵の中には幾つかの秘密が仕掛けてあります。 ここではお教えできませんが、澄生ならきっと喜んでくれる秘密です。 この作品に付けて同じく霊前に捧げた追悼の文章をここに載せておきます。


    おもいのたけのひとかけ  我が心の師父 川上澄生に

私が初めて上野の版画展に入選した時、先生が三年前に亡くなられていたことを知りました。中学生の時に先生の「北海道絵本」をまねて彫ったのが私の版画作りの始まりでした。

小学三年まで室蘭で育ち、東京に出てきた私には、絵本の中の作品を一つ一つまねて彫ることが心の慰めだったのです。 それから四十年、今ほど強く先生にお会いしたいと思ったことはありません。 

今、木版画の道をひたすら歩む覚悟を固めて、ふと周りを見回すと、心から木版画のことを語り合いたい人々は皆先生の世界へ行ってしまわれました。寂しい思いです。 十代、二十代の時に先生のお宅に伺う知恵と勇気が無かったことが悔やまれます。

私はこのごろ自分を“遅れて来た川上澄生”だと思うときがあります。木版画が好きで好きでたまらないと言う気持ちの在りかたがそう思わせるのです。 その意味でも私は先生の播かれた種の一粒なのです。

先生が一生の多くの時間を教壇に立たれたように、私も小さな学習塾で教えるという生活と時間に追われる暮らしです。 でも、先生のように時代におもねず、他人の言に惑わされず、ただただ自分の好きな絵を彫り続ける覚悟です。

自分という一粒の種が何故この世に播かれたのか、どんな花が咲くのか咲かぬのか、そしていつか誰か(それは昔の自分のように寂しい少年であれば良いのですが)に、喜びを与えることができるのかを知るためにも。

いつかそちらの世界で、先生や諸先輩の方々と胸中の想いを語り合える日を楽しみに、それまでの今しばらくのお別れです。

                              平成十四年九月一日

余談かとも思いますが、澄生は棟方志功を版画の世界に導いた人でもあります。もうひとつこれも余談ですが、この版画と追悼の文章を私のHPでご覧になった「川上澄生美術館」の関係者のかたが居られました。その方からの依頼で、鹿沼の美術館でお話したのが以下に載せた一文です。


「我が心の師父 川上澄生」  鹿沼市立川上澄生美術館 講演

君在りて 我在り    君 種まきて 我 芽生えんとす
芽生えんとして思う 種まきし人を 
その人  川上澄生
鬼ごとの 鬼となりしや 初夏の 初夏の風となりしや 


皆さん、こんばんは。 今日、川上澄生についてお話しをさせていただく岡本流生です。 このような場所でお話をするのは初めてのことなので、かなり緊張しています。 オリンピック本番前の浅田真央選手のようなプレッシャーも感じています。 言葉につまる事もあると思いますが、どうかご容赦下さい。

まず、この素敵な美術館を初めて訪れた時に、ふと思い出した一つのエピソードからお話したいと思います。

昔、北原白秋の未亡人が私の伯父に嘆いたそうです。 その伯父は青年期からずっと若山牧水と活動を共にし、牧水亡き後は、その短歌結社の維持に奔走し、牧水の業績をまとめ、沼津に若山牧水記念館を作り上げた人でした。

さて、その未亡人の嘆きですが、こうです。 「牧水さんは幸せですねえ、貴方の様なお弟子さんに恵まれて、それに対して、私の夫、白秋は・・・・・あれだけ沢山の弟子がいたのに・・・・・皆、おれがおれがで、話す事といったら自分の事ばかり・・・・・

皆さんももうお分かりだと思うのですが、川上澄生もまた、幸せな芸術家だったのですね。長谷川勝三郎という弟子との運命的な出会い、そして、ご遺族の愛情もあって、芸術家としての生涯の仕事が、このような詩情あふれる美術館の形で残ったのですから。

これは常々私が思っている事なのですが、やはり、幸せな芸術家の周りには、いつも、素晴らしい語り部、理解者、そして協力者がいるようです。

それでは、私と川上澄生のお話を始めます。 その前に一つお断りしておきたい事があります。それは、尊敬と愛情を込めて、敢えて敬称を付けずにお話しするということです。 恩人でもあり年長もある方々に、敬称をつけない失礼は承知していますが、心の通った、気持ちに沿ったお話しをする為とご理解下さい。

私は昭和24年に北海道室蘭に生まれました。 奇しくも、澄生は、この年に疎開先の苫小牧から宇都宮に戻っています。 今、思い返せばこの「すれ違い」が、その後の私と澄生との関係を暗示しているようにも思えます。

十年ほど北海道で過ごし、父の転勤で私は東京に出てきました。 その後、小学校で転校を繰り返すと言う暮らしの中で、私は周りとなじめず、いつも、北海道に戻りたいと言う気持ちで生活をしていました。

そのような時に、私は父の書斎で、一冊の本を見つけたのでした。 「北海道絵本」 更科源蔵が書いた文章に川上澄生が版画を付けた本でした。手に取って開くなり、私はその版画、文章の素晴らしさに魅せられました。

懐かしいリンゴ園の風景や、サイロ、綿羊、竹スキーや海からの霧にかすむ低い屋並。すずらんの花、そり遊び、ポプラの並木。 何度も何度も、飽かず眺めたのでした 

直ぐに、私はその絵を真似て版画を彫るようになりました。 初めて彫ったのは、絵本の中の、「かた雪」と言う作品でした。 

彫刻刀の入っていた、箱の裏に彫ったのですが、これがその後の長い版画人生の始まりになるとは、当時中学生の私には、思いもよらぬ事でした。

その後、高校時代には、自分なりに描いた、澄生風の北海道の版画を、絵本に採用してもらえないかと、出版社に持ち込んだりもしました。

十代の終わりから二十代の初めになると、私にとっての「川上澄生」が大きく変化を始めます。それまでの私にとっての澄生は、どこまでも北海道絵本の澄生でした。 

それが、当時発刊された「季刊版画」、その後の「版画芸術」を読み始めると、今まで私が知っていたのは、澄生の膨大な仕事の、ほんのほんの一部でしかない事に気付いたからでした。

特に、私の心に強く響いたのは、澄生の詩でした。 棟方志功を版画の道に歩ませた、あの「初夏の風」、そして、率直に、青年の切ない恋心を歌った「顔」 「鬼ごと」。



その影響から、私も版画に詩をつけ、同人誌に発表するようになったのでした。 そこで、同じく詩を書いていた、今の妻と知り合う事になるのですが、 それはまた別の話しですね。

その時代の事で思い出すのは、それまでは学童用の彫刻刀を使っていたのですが、初めて専門家用の刀を手に入れたことです。 連発と言う刀がある事を知ったのもその時でした。それまで、澄生の作品の写真をじっと見つめては、ここはこう刀が入っているなとか、ここは間すきかな、ここは駒すきかな、などと考えながら、技術を盗むように学んでいたのですが、その中で、どうしても分らない、同じようには彫れない謎の部分がありました。


それが、連発と言う刀を知って、ああ、これだったのかと初めて、疑問が氷解したのでした。話しはそれますが、今回のお話を頂いて、澄生の詩を読み返していたときに「顔」の詩からイメージを得て木版画を制作しました。 その版を彫るとき、私はこの連発を使いました。 私なりに、何か今回の事を記念する作品を作りたかったからです。

二十代の半ば、私は初めて版画協会展に入選しました。 恩地孝四郎、山本鼎、と言った、創作木版画の蒼蒼たる先人たち。 その人々が築いた会に入選したことに、私の心は浮き立ちました。 と、同時に、これでやっと川上澄生に会える、初日の懇親会では何を話そうと、期待が膨れ上がりました。

しかし、残念ながら、澄生はその二年前に亡くなっていたのでした。 

澄生の人生と私の人生は、23年ほど重なっています。 しかし、一度も、お会いする機会、お話しをする機会を持つ事は出来なかったのでした。 もう少し知恵と勇気があれば、ご自宅を訪問するなりして、お会いできたのに。 そんな事にも気付かないほど、当時の私は未熟で若かったのでしょう。

三十代から四十代にかけて、私は、パニック障害に苦しみました。人ごみの中へ出て行けない、一人ではバスにも電車にも乗れないという状態でした

その苦しみから、立ち直るきっかけを与えてくれたのも澄生でした。横浜で、川上澄生の展覧会があると聞き、どうしても見たかった私は、妻に支えられ、死ぬ思いで出かけて行きました。それを境に、私は再び、外の世界へ出る事ができるようになったのでした。

長年、版画の制作をしていると、時には行き詰まり、自信を無くし、悩む事もあります。  例えば・・・・・・・・「音楽や映画は強く人の心を動かす、 果たして、版画にもこのように人に感動を与える強い力があるのか?」と。

そんな時にも、「版画には力が有る、なぜなら、お前もその力で救われたではないか」・・・ 私の人生の原点にある「北海道絵本」との出会いの経験が、私に版画の道を歩み続ける勇気を与えてくれたのでした。

五十代の半ば、私は版画協会を退会し、名前も、これまでの本名から「流生」に改めました。「生きる」の一字を澄生から頂いたのは、いよいよ、版画の道に精進する事を自身に誓ってのことでした。

そのころ、澄生の墓前に報告するため、宇都宮を訪れた際、この鹿沼の美術館にも立ち寄りました。 ただ、折悪しく改装中で、作品を見ることはできませんでした。

澄生は、63歳で宇都宮女子高等学校を退職されました。この時の気持ちを、澄生は「これからいよいよ版画家となるなり」と記しています。 芸術家と教師、二足の草鞋を履く暮らしから解放された喜びは、私にもよく分ります。

私は今60歳。 澄生が退職した年まであと三年。 私も、それまでは、小さな塾ではありますが、教壇で教え続けるつもりです。ただ、生活の事を考えると・・・・・妻の言うように、体の続く限り働く事になるのかもしれません。

最後になりましたが、私が日ごろ強く感じている事についてお話したいと思います。それは、人の一生は、様ざまな縁によって決められ、支えられているんだなと言う事です。

青山学院中等科時代の、澄生と合田弘一との縁、その後の長谷川勝三郎との縁、澄生と北海道とを結びつけた小坂千代との縁。 そして、それにつながる私と北海道絵本との縁・・・・・

今日ここで、こうして皆さんにお話をする事ができるのも、吉田司、清子夫妻、そして長谷川勝郎さんとのご縁によるものです。  

人は昔から夜空を見上げては、明るく輝く星星をなぞり、様ざまな星座を描いてきました。今もし、私がこの夜空に、私に縁ある人々を、天空の時間と位置の座標軸の中に、星の如く並べる事ができたら・・・・・どんな形を描くのでしょう。

それは・・・私にも分りません。 ただ一つ、これだけは確かな事は、その中で一際明るく輝く二つの星は、私を版画の道へと誘った川上澄生であり、私に木版画の全てを教えてくださった、吉田遠志だと言うことです。


これで、私のお話は終わりです。ご清聴、ありがとうございます。     

         平成22年2月28日          岡本流生


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