33.恋初めるころ (夏) A シリーズ「初恋」より 2001年 12版
この「恋初めるころ (夏)」には、AとBの二種類があります。この二種は色違いではなく、髪型が違うのです。 (B)はこの(A)に更につけ毛のような長い髪の版を摺り足したもので、水に濡れた黒髪が胸の辺りまで来ています。
ただ髪の長さを変えただけで、その印象は随分と変わります。(A)がモダンな少女の感じを見せるのに対して、(B)は大人び、、どこか昔風の女性の表情をしています。この髪型の違いによる顔の印象の違いは絵でも実際の人間でも変わりがないということですね。
この、髪型だけを変えた作品は、他にもあります。 ただ、この作品ほどその違いが際立ったものは無く、二種類を並べて見せても気づかない人がいたりもします。
私はどちらかと言うと、このショートヘアの方が好きなのですが、市場での人気はロングヘアにあります。オスロでの展覧会のポスターに採用されたのも(B)の長い黒髪の方でした。 外国人には、異国情緒がより強く感じられるからでしょう。
シリーズ「初恋」は、彫りにも摺りにも、高度な技術を必用とする作品群です。それだけに神経を摩り減らすような作業が続き、時には集中できなくなったり、すっかり消耗してしまうことも。 そんな私を励まし、勇気付け、支えてくれた一通の手紙があります。 ご本人の了解を得て私のホームページに紹介したものを、ここに転載いたします。
..・・・・(途中略)「初恋」のそれぞれ、実に魅力的でした。
先生のお作品は、版画展45回展の「今様」あたりから49、53、54、55、56、58回展と、以前の画風も好きな作風でしたし、55、56回展が殊に心に残ったように記されていますが、ここ数年のお作品は、入手しておりませんので、殊に新しい魅力で迫って参ります。
版画と、それ以上に日本画が好きな私ですから、美人画も、数だけは割と多く集めましたものの、鑑識眼がいくらか上がりましたこのごろあらためて眺めて見ますと、何の変哲もない単なる美人画が結構多いことに気づきます。もちろん私の資力では、深水や松園とは縁遠いことですから、この辺が似合いの所でしょうか。
それはさておき、清楚な中からあらわれる健康的なお色気、さびしげなあやしい妖気、美人画の魅力は幅広いものですが、この度の先生のお作品は、健康的な思春期からの色気をほうふつとさせる実にすがすがしい作品でした。
画廊さんの誠に適格な推薦文によって尚更作品の高尚さが伝わって来ました。
ごらんの通りの醜男の私は、女性との縁は、まるで薄く過ぎて来ました。それだけにせめて、絵に描かれた素敵な女性と共にいたいという欲求のあらわれでしょうか、やさしく美しい女性へのあこがれは、ひと一倍強い方だと思います。
そんな飢えたまなこで眺めるばかりでなく、70才にもなって、生臭ささの消え失せた、落ち着いた冷静な眼で眺めましても、「初恋」のそれぞれは、におうがごとき青春の美しさ、その内なる血潮や鼓動さえ感じる生命を、あますところなく、しかもつつましく、控え目に、芳香に乗って、つたえてくれるあこがれの姿でした。
西洋画における立体的リアルな表現を、毛筆によって極限にまでせまった画法や、日本画の美人画の、髪や、まゆ目鼻だちの微細な描画法なれば、女性の内面までもあらわす可能性もわかりますが、線一筋によって現わされた木版画で、これほど肉体の深層精神の内なる情感まで表現出来るすばらしさに、感動を覚えます。
そこにたどり着くまでの先生の研鑽と努力は並大抵のものではなかったであろう事は想像も出来ますが、ある意味で、背景の設定や補助物に頼る事なく、全体的には要約され、簡素化された画面だけで、人物のパーソナリティーが、あますところなく、つたわって来るのです。
私はこの感動を言葉で表現出来ないもどかしさをあせっておりますが・・(以後略)・・・
蓮蔵栄治雄
34.South Wind シリーズ「風景」より 金沢八景沖 1987年 13版51度摺り
四十代の一時期、神奈川県展の運営に関わり、版画部門の実行委員長や審査員、審査委員長などを務めました。 丁度その頃、横浜市が開港だったか市制だったかの節目の年を迎えることになり、「市民グラフ横浜」(市の広報誌)が記念の企画をたてました。
横浜市内の名所を絵と文で紹介するというその企画に、私も他の日本画家や洋画家に混じり、版画で参加することになりました。 その時掲載された作品がこの「South Wind」 です。横須賀の我家からは少し離れていたのですが、バイクでよく走った海岸の風景です。
作品の技法が他の作品とは少し違っていて、墨版(図柄の輪郭線の版)が無いのが特徴。私の作品では珍しいもので、輪郭線がない分絵の印象は柔らかくなっています。また、“あてなしぼかし”が多く用いられてもいます。 風を受ける帆に書かれている文字や数字にも、例によって隠された遊びがあります。
35.狐月夜 (1) シリーズ「白狐」より 1985年 13版
(1)と(2)で対の作品。白狐シリーズでも人気のある作品で、今でも時々注文を頂くことがあるのですが、今年のアトリエ公開の時に最後の1セットが売れ、今は絶版。
対で飾っていただくのが作家としての希望なのですが、実際は背景に月のある(1)の方が少し多く売れました。(1と2では最終的に摺り上がった枚数が異なる)
この作品が出来たころは、まだバブルの時代。 私の版画もよく売れました。 私は、毎月のように、版画を納めたケースを提げ、東京の取引画廊を回ったものです。また多くの海外の画廊にも作品を送り出しました。それら十以上もあった取引画廊も、バブル崩壊後に店を閉めたり、規模小さくしたりで、今は横浜の老舗の画廊とのお付き合いがあるだけになってしまいました。
この「狐月夜」 についてのエピソードを。 いつものように作品を持ち、画廊回りをしていた時の話です。 ホテルニューオータニだったか、ホテルオークラだったか、兎に角ホテルの中のアーケードに店舗を構えていた画廊。 そこのご主人が「狐月夜がセットで売れたぞ、買ったのはなんとマジックジョンソンだ!」と。 私はその有名な、プロバスケットボール選手のことを知らず、奇術師か何かかと思ったのでした。
また、ロンドンの画廊からも、だれか有名な人がこの作品を買ったとの手紙を頂いたのですが、その人が誰だったか?手元に資料も無く、思い出すことも出来ないのはちょっと残念。 当時はインターネットなど無いので、外国とのやり取りも手紙が主、本当に急ぎの時は国際電話で話したものでした。
今はメールで簡単にやり取りが出来、新作の写真も添付できます。芸術家にとってはよい時代になったと言うのに、そのやりとりをする相手の画廊がなくなってしまいました。
ここから話は更に脱線。 私は秘湯めぐりが趣味、(でしたが正確かな?)。 数はそう多くはないのですが、夏や冬の休みには妻といろいろ山奥の温泉へ出かけたものでした。 その中でも一番のお気に入りが“法師の湯”、その法師の湯へ行くバスのバス停に“月夜野橋”と言うのがあり、その名が放送されるといつも「なんだか、狐月夜と似た名前だな」と思ったものです。
(後、白黒の版画で「法師の湯 1、2」を制作、その宿に泊まった折りに館主に寄贈)
バスでは、与謝野晶子や若山牧水が、法師の湯を訪れた時に詠んだという短歌も放送で流れます。その牧水の歌。
やまかげは日暮れはやきに学校のまだ終わらぬか本読む声す これはまるで清内路小学校を詠んだみたい!
えい、脱線ついでにもうひとつお気に入りの牧水の歌を。
かんがえて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏の夕暮れ これはまさしく私の事!
最後に作品についての真面目な話も。 背景には雲母(きら)摺りが使われています。また、この女性は狐ではなく、この池のぬし、白蛇の化身。 その証拠に腰の辺りに鱗が見えています。
もうひとつ真面目な話をすると、この作品を発表してから何年か後、この作品によく似た版画を発表した人がいました。まんざら知らない人でもなく、「真似したくなるほど、この版画を気に入ってくれたんだな」と考え、ことを荒立てることはしませんでした。
36.一番星 シリーズ「初恋」より 2006年 11版
バックの青のボカシも美しく、夢見る乙女の表情もよく描けた、好きな作品です。 妻が昔着ていた服で、私も気に入っていたものをモデルのSちゃんに着てもらい制作しました。 彼女には少しサイズが大きめだったと記憶しています。
但し、色や柄は私のデザイン。薊は野の花の中でも大好きな花。 さて、背景の白樺、白樺と言えば→夏の高原、夏の高原と言えば→恋する乙女。 私の頭の中では歌謡曲「高原列車」が聞こえていると・・・こんな流れの作品です。(時代遅れで、時代錯誤でもあることは百も承知で書いています)
ちなみに、今の私のアルバイト先、ふるさと村・自然園はまさにこの絵の舞台のようなところ。そこで今回の50年展を開くのですから、この絵は絶対に外せないなと。
2012年、京都で「第一回 国際木版画会議」が開催されました。二十二カ国、百名を超える参加者が、道具や材料、彫りや摺りの技法など、各テーマ別の分科会で意見発表をするものでした。
プログラムの期間中には、作品展やワークショップ、或いは伝統木版の彫師、摺師による実演も行われました。その摺りのデモンストレーションを依頼されたのが、日本を代表する名摺師の沼辺伸吉氏でした。
かれは、その実演の会場に浮世絵ではなく現代の伝統木版画を飾り、参加者に見てもらおうと考えました。その時彼が選んだのが、私の版画の師、吉田遠志先生の作品と私の「初恋」シリーズの作品だったのでした。そしてその彼が選んだ作品の中に、この「一番星」も入っていました。人物の周りの美しい青のぼかしを見せたかったのではないか? 私はそう思っています。
また、この時の、木版画の道具に関する展示では、私の開発した「流生モデル彫刻刀」も、ウッドライクマツムラ(木版画の材料、道具の専門店)さんのご厚意で会場に展示されました。初期モデルから今の最終的な形するまで、30年近くかかっただけに、多くの外国のアーチスト達に見て、さわって、試していただけた事は本当に嬉しいことでした。。
37.カトマンズの少女 シリーズ「アジアの子供」より ネパール 2003年 17版
小品である割には、墨版の彫に時間がかかった作品です。 まずは、この絵の説明から。 展覧会の時のカタログより転載します。
カトマンズの少女 ネパール
インドやネパールを旅していると、普段は思いもしないようなことを考えます。死についての思いもその一つです。ここでは人間の死がありのままの姿で見えているからでしょう。
ガンジス川の岸辺では、一日中火葬の煙が立ち昇り、恋人たちはベンチで寄り添いそれを眺めています。灰になるだけの自分、だからこそ今を大切に生きたいと思ったりもするのです。
カトマンズでは、クマリと呼ばれる生き神様の少女とお会いしました。でもこの絵の少女は普通の少女、生き神様ではありません
。
ここで、シリーズ「アジアの子供たち」 について、少し書いておきます。20回近い取材旅行で、制作した版画は40点ほど。 その三分の二が女の子。 今回の展示で、その女の子の作品ばかりなのは、男の子の作品に良いものが少ないことによります。これは、私の趣味ばかりではなく、民族衣装など、女の子のほうがどうしてもその国らしい服装をしていることにもよります。
さて、話は少し唐突ですが、アーティスト・イン・レジデンス。 (後でこの作品につながってきます) この言葉は、芸術家が有る程度の長い期間、(普通、一ヶ月から半年ぐらい)、その場所に滞在しながら創作活動を行うことを意味します。
1990年代の半ば頃から、政府の掲げる“まちおこし、むらおこし”事業の一環として、過疎化に悩む各町村で取り組まれるようになりました。
近年、空き店舗や空き家が目立ち始めた飯田市でも、このアーティスト・イン・レジデンスの活動を取り入れてはどうかとの、提言が民間からなされたと、新聞で読みました。 是非、実現してほしいものです。
私も、過去にこの活動に関わったことがあります。2003年の事です。 淡路島にある津名町(当時)が、日本の木版画を学びたいという海外のアーティストのために、アーティスト・イン・レジデンスプログラムを組んだときのことでした。
カナダ、韓国、マレーシア、ドイツ、イギリスなどから、6名のアーティストが参加したこの活動で、私は彼らに木版画の彫り、摺り、の基本技術を教える講師を務めたのでした。 そして、その時に教材として持って行ったのが、丁度その頃完成したばかりのこの作品「カトマンズの少女」でした。
下絵から、版木、そして摺りあがった作品の一式を彼らに示しながら、どのような流れで一枚の版画が出来上がるのかを説明したわけです。
38.朝霧 シリーズ「風景」より 1991年 10版
場所は特にどこだということはありません。 頭の中で組み上げた作品。 林を撮った何枚かの写真を参考にしながら、それぞれの木を描き、配置、構成したものです。
霧を表現するためにボカシを多用しています。また、紫系統の色を用いることで、早朝の凛とした空気の感じを出すよう試みています。 人気のある作品で、海外のネットオークションに出品すると必ず売れてくれる“孝行息子”です。
今、アトリエを構えている清内路は霧の多いところ。 いつかその霧の佇まいも版画にしたいものです。
39.あの夏の日に シリーズ「アジアの子供たち」より 日本 2000年 15版
この作品は私の数多い版画の中でも最も時間がかかったものです。 画面が大きいうえに図柄も細密。そのため、彫りの作業は困難を極め、途中何度も中断。その間他の作品をやり、また戻っては投げ出す、そんな繰り返しでした。
本気で完成を断念しようと考えたことも有りましたが、何とか仕上げることができました。 下絵を描きあげてから、五年以上の年月が経っていました。
この絵の場所は山形。 妻と東北の秘湯を巡る旅の途中、一日、車を雇って集落を取材して回った時に出会った廃屋です。 下絵では「棄郷」と題名を付けたのですが、長い期間版と向かい合っているうちに、この家に暮らしただろう家族の気持ちに思いが至り、今の題「あの夏の日に」としたのでした。 絵の中の少女のモデルは、教え子の子ども。
リストで確認すると、摺りあがった作品はわずか10枚。 それだけ摺りもたいへんな作品です。余談ですが、この時訪れた秘湯の内の、肘折れ温泉には朝市がありました。 本当に素朴な朝市。機会が有ればもう一度訪ねてみたい秘湯です。
最後に、HPより、この作品につけた文を転載。
あの夏の日に 日本
”物より思い出”というテレビコマーシャルがありました。その言葉を初めて耳にしたときは、思わず心の中で頷いてしまいました。
物は何時かは壊れて無くなります。でも思い出は決して壊れたり無くなったりはしません。其れに何より、どんなに増えても場所を取りません。
この絵の民家は山形で見たもので、もう誰も住んでいません。やがて消えていく家です。しかし、此処で暮らした人々の心の中に、その思い出は。いつまでも生き続けます
40.幾山河越えさりゆかば シリーズ「初恋」より 2003年 13版
作品の題名は若山牧水の「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」よりとりました。
牧水はあるとき「最も尊敬する人物は誰か」と訊かれて、側にいた私の伯父を指差し、彼が私の最も尊敬する人間であり、私の同志であると答えたそうです。また牧水は母の姉の歌の師でもありました。
この作品には、“我が母に捧げる”と副題がつけられています。 この絵のような女学生時代には、思いもしなかっただろうその後の母の人生、その苦労の多かった人生に思いを巡らせてのこの「幾山河・・・・」の題名なのです。 横に置かれた学生鞄には、母の旧姓が入れてあります。
41.古都祭図 1987年 15版
この作品も苦労した作品。 下絵から完成までに、5ヶ月ほどかかりました。 また桜の版木を手に入れるのもたいへんでした。注文してから半年ほど待たされた覚えがあります。板幅55センチ、長さ66センチ、厚さ3センチの山桜のむく。簡単には良い原木が見つからなかったためです。
その無垢板の版木も、10枚ほどの初刷りが終わった後、反りが入り、狂いが出たために使用困難になりました。 それでも同じ色版を何度かに分けて摺るなどして二番摺りの25枚ほどを摺り終えて絶版としたのでした。(版木に狂いが無くても、これだけの大きさになると、ずれない様に色版を重ねていくことは一流の摺師でも難しく、二番摺りをお願いした名人摺師から、もう次は勘弁して欲しいと言われたことも絶版を決める理由になりました)
今は、桜の合板、(1.5センチ厚のシナベニアの合板の表と裏に厚さ6ミリほどの桜の単板を張り付けたもの)が開発され、反りや伸び縮みの心配はなくなりました。 また単板を寄木にすることで板幅の広いものでも手に入れやすくなったのでした。 ただ、質は昔ほど良いものは少なくなりました。
この絵の背景の町並み。その中に、両親、私、妻、二人の息子、版画の師など、私にとって大切な人の名前や頭文字が彫り込まれています。これも何ヶ月も続く作業を少しでも楽しく思えるようにするための私なりの遊び。
そのことを、アメリカンクラブでの展覧会の時に、秋篠宮妃殿下紀子様にも、一つ一つ指で示しながらご説明したのでした。
この作品は海外の版画展にも出品しました。 東京国際文化交流協会(TICA)の主催で「国際日本版画展」がヨーロッパ各国を巡廻する企画に応募したものです。 この展覧会には審査は無く、出品料さえ払えば誰でも参加できました。
無審査ですので、大賞などの賞は無く、唯一、展覧会の入場者の投票による“ヴィジターズ賞”だけがありました。200点近い(記憶では)出品作の中で、得票数の多い上位10作品(ぐらい?)に与えられたと記憶しています。
1991年ー1992年の間に、イタリア、ギリシア、アイルランド、ノルウェー、アイスランド、フィンランドで開催され、この「古都祭図」はその内の何カ国かでヴィジターズ賞を頂いたのですが、さて、どの国で何位だったのかは資料も無くはっきりしません。
各国での展覧会が終了するごとに、その会場風景やオープニングの様子などを写した写真、作品の画集などと共に、受賞者には順位が書かれた賞状がとどきました。 ただ、その賞状たるや、ぺらぺらのA5ほどのもので、取っておく気にもならないようなものだったのです。
42.砂の精 シリーズ「アジアの子供たち」より インド 2005年 17版
砂漠の上を飛ぶ鶴を見たことがあります。もう随分昔のことなので、その鶴の名前は思い出せないのですが、ヒマラヤを越えて渡ってくるのだと聞きました。その時、一面の砂の世界の中の白が心に残りました。
もう一つ、気になる白があります。それは白磁の白です。そして、その白に映える藍色の染付け模様。この作品は、その白への拘りを頭の中で、少女の形を借りて再現したものです。これで、長年の宿題を一つ終える事ができました。
制作には、およそ三ヶ月かかりました。技法としては砂の表現に新しい工夫があります。一度の摺りで濃淡二色が出せるものです。
この少女には、インドのタール砂漠に点在する村々を取材中に出会いました。 実際に着ていた衣装は白ではなく、模様もこの絵とは違います。 この時の取材旅行では砂漠の中の土造りのゲストハウスに泊まりました。 その中庭で、夜、焚き火の傍で日本から持参した日本酒を飲みながら見上げた空には、満天の星。 そして、真っ赤な月がでていました。
43.狐女童 (きつねめわらべ) Picnic 1 1990年 17版 72度刷り
下絵から完成まで、半年近くかけた作品。 本来はPicnic 2との対になる。 この1と2を1991年(1990?)に、版画協会展に出品し会員推挙を受けたのでした。
今回の展示品は残念ながら完璧なものではありません。 試作品です。出来が良く、限定番号を入れることが出来たのは、1が18枚、2は7枚しかなく、私の手元にも良いものがないのです。
この作品は、ノルウェー、オーストラリア、ニュージーランドの国立、州立の美術館にも収蔵されています。しかし、最も完璧なできのセットは、日本人の美術品コレクターM氏のコレクションの中にあります。 いつか、大きな展覧会を開くことがあれば、その時はM氏からお借りして是非二点の対で並べてみたいものです。
ちょっとお金の話を。1と2のセット一組にかかる制作費用は? 紙は福井の今立で漉いて頂いた最高の越前生漉き奉書。二枚で6600円。 滲み防止のドーサ引き代、400円、純金箔51枚で(33×51)17340円、摺り賃18000円の計42340円。
これに版木代や絵の具の費用などを加えると、10セット作るには50万以上の資金が必要になるわけです。 (全て制作当時の値段で計算、今はもっと高いと思われます) しかも、これには私の一年近くの彫りの作業の労賃は含まれていないのです!)
伝統木版画には、お金がかかります。これが若い作家がなかなか育たない理由の一つでもあるのではないでしょうか。 生活費の他に制作費も稼ぐ、そして制作時間も確保する、この両立が難しいからです。
この作品は1993-1994年にかけて、41の「古都祭図」でも触れた、TICAのヨーロッパ巡廻「国際日本版画展」に出品。(スゥェーデン、トルコ、デンマーク、エジプト) その全ての国でヴィジーターズ賞を受賞(記憶では)。
44.この胸の想いを シリーズ「初恋」より 2007年 14版
技法の話から。まず背景の沖縄の紅型。この部分には墨版(輪郭線の版)がありません。そのため、各いろがずれないようにするため、一色彫ってはそれを転写し、その隣り合う色を彫ることを繰り返しています。
また、薄い生地から透けて見える肩の色は、あてなしぼかしで表現しました。 衣服の一部、帯の黒い柄の部分は、電動のルーターに歯科技巧師が用いているビット(ドリルの刃先)をつけて彫っています。
沖縄は、30代の頃、仕事で何度か訪れたことがあります。 個展をしたり、アメリカンスクールで版画のデモンストレーションもしました。 二泊三日程度の短い滞在期間中は仕事に終われ、憧れの沖縄の海で泳いだり、郷土料理を楽しんだりすることは出来ませんでした。
一度、基地の司令官から、ご自宅での夕食に招かれたことがありました。ステーキとデザートで、 問題はそのデザート。 ご夫人が焼いたそのケーキは、砂糖の塊かと思えるほど甘く、そしてBIG! 失礼のないようにと、なんとか食べきったのですが、内心、糖尿病になるのでは?と思ったことでした。
司令官の腰には、お弁当箱の3倍ほどの大きさの箱型のケース。 今思えばあれが当時の携帯電話だったのですね。
この絵もそうですが、私の作品には“手紙”がよく小道具として登場します。今ざっと思い出しても7,8点はあります。気持ちを伝える手段としては、もう主役ではない時代なのは分るのですが、さて、携帯やスマートホンで、その情感を描けるのか? 私には自信がありません。(ただ、携帯の画面を見つめる少女の下絵はあります)
余談ですが、何度目かの沖縄行きの時、早朝出発の便に乗るため、羽田に近いホテルに前泊中に体調を崩しました。 これが、その後20年以上に亘り私を悩ますことになるパニック障害の引き金になったのでした。
45.白つめ草 シリーズ「初恋」より 2009年 13版
白つめ草の野にすわる少女。モデルはSちゃん。 衣装はインドで買ったもので、胸元に刺繍とミラーワークの飾りがあり、別の作品「すみれ咲くころ」でも使っています。
背景の野原の部分は、電動のルーターによる彫り。 また、一部アクリル系の絵の具を使用。これは下地の色との混色を防ぎ、鮮やかな発色をもたらします。
雑学。 つめ草と伝統木版画にはいささか因縁があります。 ツメクサの語源は、江戸時代、オランダから輸入されたガラス器の梱包用の詰め物として、この雑草が使われていたからと言われます。
逆に日本からヨーロッパへ輸出されていた瀬戸物の詰め物が、しわくちゃに丸められた浮世絵。(正確には浮世絵を含む反古) その浮世絵がヨーロッパの人々を驚かせ、後のジャポニズムへつながるわけです。 ゴッホが浮世絵に惹かれていた話はゆうめいですね。
46.宵宮の日 シリーズ「初恋」より 2000年 16版
絵の構想が決まると、衣装を用意しモデルを頼みます。しかし初めに頭の中で考えていた構図より、その場でより美しいポーズを見つけることも多いのです。
この絵の時もそうでした。髪が結いあがるのを側で見ていた私は、二人の自然な姿に”これだ!”と思ったのです。そういった直感はまずはずれません。衣装は中国、雲南省の少数民族のものです。
モデルを頼んだのはSちゃんとUちゃん。 二人が組んでの絵は他にもあります。「望郷」と「君恋うる胸のさざなみ」がそれです。
47.放課後 (1) シリーズ「初恋」より 2001年 11版
摺り上がった作品は11枚。好きな作品。 特に目が気にっています。モデルのSちゃんに、近くの小学校の校庭でポーズをとってもらいました。
初恋シリーズの英題はFirst Love 作品ごとのタイトルはなく、No.1,No.2 のように呼んでいます。この「放課後 (1)」は First Love No.12。 このFirst Loveのタイトルについてアメリカの画廊からメールを頂いたことがあります。
First Love だと、アメリカでは小学生ぐらいの年齢を思わせ、絵と合わない。自分の画廊のウェブサイトでのタイトルをYoung Loveにしたいと。確かに言われて見るとそうかもしれないなと、了承の旨返信したのでした。
さて、今回の展覧会のポスターのデザインをしてくださった、自然園の副支配人のHAさん。この方とポスターに使用する版画を選んでいたときの事、私が推す作品と彼が選ぶ作品にはかなりのずれが。
人の好みというのはやはりそれぞれなんだなと思いました。 結果、ポスターは3種類を作ることになりました。
48.アナトリアの織姫 シリーズ「アジアの子供たち」より トルコ 1997年 19版
「アジアの子供たち」の中でも人気のある作品です。 強い色彩が印象的だからなのでしょうか。東京アメリカンクラブでの個展の時につけた作品解説は・・・・
トルコのアナトリア高原、岩山ばかりが続くこの地の人々は、農業よりも、昔からの伝統的な絨緞づくりで現金収入を得ています。
村の少女たちは10歳になる前から織りの仕事を始め、その一生のほとんどを織機の前で過ごします。この絵のモデルの少女は中学生ぐらい、横顔の綺麗な子でした。技術も覚え、まだ指先も細いこの年頃の少女が織る絨緞は、きめが細かい高級品として売られるそうです。
将来の夢をきくと、少しはにかんで「結婚すること」と答えてくれました。
イスラム教の国では、女性はスカーフで髪を隠します。そのまき方、色、柄も様々で見ていても楽しくまた絵心をそそられます。 ただ最近気づいたのですが、ヨーロッパでのオークションではこの手のスカーフを巻いた少女の版画はほとんど売れないのです。 日本ではそんな事は無いのですが。
背景の花はチューリップ。チューりップはトルコ原産の花と言われています。また、周囲のタイル模様は、イスタンブールのモスクで見た、床や壁の模様を参考にしました。
49.ヒコーキ雲 シリーズ「初恋」より 2007年 10版
モデルはSちゃん、場所は横須賀の私のアトリエから程近い海辺の公園。 昔、息子達がまだ幼かった頃、この公園でよく遊んだものでした。 また、塾での授業を終えた後、子供たちと街灯の明かりを頼りに野球をしたりもしました。背後の海は相模湾。 天気が良ければ、対岸には江ノ島や富士山が見えるところです。
初恋シリーズは作品数が多く、また私の好きな絵も多いので、今回の展示にどれを出すかを決めるがたいへんでした。 この「ヒコーキ雲」は、二月に清内路でアトリエ公開をした折、来ていた男の子が「この絵が一番好き」と言っていたのが忘れられず、展示作品に加えました。
50.長井町風土記絵本 版画絵本 昭和52年
塾の教え子たちと作った版画絵本。 川上澄生の「北海道絵本」が頭にあった私が、塾生達に、夏休みの自由研究としてやらないかと提案して始めたものです。
中学一年のクラスの子12人が参加。 地域の神社や寺、名所や産物などを取材し、記事と版画で構成しました。ひと夏まるまるかけた労作で、私の思い出の宝物でもあります。(横須賀を離れた後は特にその思いが強くなりました)。
版画について言えば、殆んどを子供達自身が描き、版も彫りました。ただ、中には何点か私の作品も。 学校が始まるまでに完成させねばならなかったので。
記事はガリ版とカーボン紙の併用。 今ならパソコンとプリンターでいくらでも綺麗な本ができます。 いつか、ここの子供たちと「清内路風土記絵本」を作ってみたいものです。
51.写真 上の写真 美智子様と妻と私 1980年 東京アメリカンクラブ CWAJ現代版画展 25回記念展に於いて、自作「ピエロ」が主催者から美智子妃殿下(当時)へ献上され、妃殿下からお言葉を戴いたときの写真。
下の写真 紀子様と妻と私 1992年 東京アメリカンクラブ CWAJ企画・6人の招待作家による版画展「KIMONO」の会場にて。オープニングに来賓として見えられた秋篠宮妃殿下紀子様のご案内役として展示作品をご説明申し上げているところ。
1995年 CWAJ現代版画展 40回記念展で、私は版画家奨励賞を受賞しました。 その授賞式の主賓は皇太子妃殿下雅子様だったのですが、そのお写真が一枚も手元に無いのは残念です。主催者側からの通達で、会場での写真撮影が一切できなかったためです。後日、主催者から、授賞式の様子はテレビの「皇室アルバム」で放映されたと聞きました。
後書き
50年は大雑把に言って1万8千日。 その中で、自身にスポットライトが当る華やかな場所にいたのは、結婚式を含めてもいったい何日あったか。 1万8千日の九割九分九厘は、ただひたすら子供たちを教え、描き、そして彫り続けた日々でした。
ここ清内路に、流れ着くように来てから、一年半。 今ようやく、この地でやりたい事が見えてきました。 「作品を常設で見せる場所を持ちたい」。 これからはこの夢に向かって進もうと思います。
一人でも多くの支援者、理解者を得るため、「まずは見てもらうこと」から始めるつもりです。今回の個展は、これまで支えてくださった方への感謝の意を表すものですが、同時に「見ていただく、分っていただく」、その第一歩ともなるものです。 今後も、お声さえかかれば、作品を抱えどこへでも出かけて行く覚悟です。 よろしくお願い致します。
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