27.誰が踏みそめし   シリーズ「初恋」より 2000年  12版

 題は島崎藤村の有名な詩「初恋」よりとりました。 「初恋」のシリーズは、49歳の時から15年以上にわたりライフワークとして取り組んできたシリーズ。 この間に作った作品は50点を越えます。

そもそもの始まりは、日本画家、菊池契月の描く線の美しさ、凛とした女性像に、私がすっかり魅せられたことでした。、版の上でその端正、典雅な線を表現してみたい。更には契月のように高い画格を持った作品を作りたいという強い憧れでもありました。

また、その当時、私と妻との関係が・・・・お互い、相手を思いやる気持ちは十分過ぎるほどあるのに・・・相手を心底から信頼し愛することはできない・・・・と言う状態にあったことも、私をこのシリーズへと駆り立てたのでした。

つまり、“人の心は変わる、愛も永遠ではない、どんなに強く思えた愛情もいつかは醜く錆びて朽ち果てる。 その中で唯一輝きを失わないのは心の中の初恋の想いだけである”との考えに、私の心が支配されたからでもあったのです。

制作に集中するため、所属する版画協会、大恩ある吉田版画アカデミー以外への出品を、CWAJ展も含め全てやめる事を決意したのでした。 (後に版画協会も退会しますが、その理由は"初恋”の制作に専念したいという事だけではなく、他にも理由がありました)

このシリーズ、なんと言っても線の美しさが命。その必用にせまられて、時には苦行とも思える長時間の集中した彫りの作業の中で、自分なりのやりかたを見つけ、私の技術は高められて行ったと信じています。 

身近に素晴らしいモデルがいた幸運も重なり、シリーズの作品は着実に増え、海外の木版画愛好家の間でも少しづつ私の名前も知られるようになりました。そんななか、版画家憧れの本「版画芸術」が特集を組んでくださることになったのでした。

その時の特集のタイトルは「甦る伝統木版画」 メインは私ではなく牧野宗則氏でした。それでも、それまで単品として作品が紹介されることはあっても、特集の中で扱われたのは初めてのことで、とても嬉しく思いました。

更に、その中の私に関する記事のタイトルが、私の思いを的確に表していて、とても気に入ったのでした。 「岡本流生  初恋の眼差しを彫る」 編集者が付けてくださったこのタイトル、いつか自分の個展でも使いたいと、いいえ、絶対に使おうと思っています。


その記事の冒頭の部分をここに引用します。

                まだあげ初めし前髪の 
                林檎のもとに見えしとき 
                前にさしたる花櫛の
                花ある君と思ひけり     (島崎藤村 「初恋」より)

思春期の情感が格調高い文体の中に瑞々しく謳いあげられた、有名なこの詩の一節を、岡本流生はよく版を彫りながら口ずさむ。 版の中で姿を現しつつある少女が、生命を宿すがごとく彫りあがるようにとの祈りを込めて。

この詩が喚起させるさせるような、ひたむきさに溢れる清楚な女性美を、岡本は同名のシリーズにおいて、この8年間わたって描いてきた。 伝統木版画の和紙と水性顔料がもたらす湿潤感。 それこそが表現したい女性の心の湿度、すなわち叙情的な核心を引き出してくれると考えている。

岡本の女性像で特徴的なのは、浮世絵や新版画などに共通する(今ではほとんど試みる者のいない)、繊細な輪郭線による表現である。・・・・・・(版画芸術 2005年 第129号より)


最後に技術的な説明を加えると、スカートの部分に板ぼかしを使っています。また、墨線の目立つ白いシャツの部分は、特に細い線も使いました。 桜の版木でも残せるぎりぎりに近い線もあります。


28.望郷  シリーズ「初恋」より 2010年  15版

 現代木版画の、彫りと摺りの技術の一つの頂点を示す作品と思います。

2011年、オスロの文化歴史博物館が、開館200年の記念行事の一環として私の個展「浮世・過去それとも現代?」を開催することになりました。 開会式に出席するためオスロに向かう時、丁度刷り上ったばかりのこの作品を二枚持参したのでした。 一枚は博物館へ寄贈するため、そしてもう一枚は、博物館への寄贈、個展開催の仲介の労を取ってくださった方へ贈る為でした。

この方は、ノルウェーを代表する美術品のコレクター。 私が駐日ノルウェー王国大使館に、「私の作品、版木をノルウェーの博物館に寄贈したい」旨のメールを入れた時に話を戻します。

申し込みを受けた大使館側は、私の作品の評価、そして博物館に収蔵する価値があるかどうかの判断を本国に問い合わせ、そのコレクターの方に意見を求めたのでした。

偶然にも、彼は私の作品を何点か所蔵していて、私の経歴や作品の事をよく知っていたのでした。そして、私の作品の寄贈を受けるように強く推してくださったのでした。

再び話をオスロに戻します。 私達夫婦の歓迎会の際、版画をコレクターの屋敷の一室で広げた時、取り囲んでいた皆の口から一様に驚きの声が上がりました。これだけの技術の現代作家の作品ははじめて見たと。 それを聞いた私も妻もとても誇らしく思ったものでした。

さて、以下は私のホームページよりの転載。



作品、版木等の寄贈に関する私の考え
  岡本 流生  July 11 2010



1.何故寄贈するのか?

私の両親が亡くなり、その家を取り壊す事になった時に、残されたものを整理、処分した事が有りました。 父親が残した多くの蔵書、母の着物、写真や日記、その他の多くの遺品の整理、そして処分は、両親を愛していた私にとっては、とてもつらい仕事でした。

その経験から、私は自分の物の整理を、自身の目の黒い内にやって置くべきだと強く思ったのでした。 特に、作品、版木、下絵類のように、残された遺族にとって、保管する場所や管理の方法などで重荷になる物は、還暦までに全て行き先を決めておこうと決めたのでした。 

二人の息子は、私を愛し、尊敬してくれています、それ故に、彼らは、残された作品や版木の保管を、私のためにも、できる限りの事をしたいと思うでしょうが、日本の住宅事情はそれを許さないでしょう。

2. 何故、国内ではないのか

私の作品に対する国内での評価は、海外でのそれと比べて、決して高いとは言えません。 実際、作品の購入者の凡そ9割は外国の方です。

また、幾分、権威主義的な国内の美術館は、私のような無所属で肩書きもない作家の作品を、積極的に収蔵しようとは思わないでしょう

3。  何故、ノルウェーなのか?

作品、版木等の寄贈先は以下の事を考慮して決めました。

T 平和な国である事 (フセイン政権崩壊時の、イラクの博物館の様子が頭にありました。)

U 市民が、文化、芸術を楽しむだけの、生活にゆとりがある国である事。

V その国自身に、歴史的伝統、文化の厚みがある事。

W 市民が、芸術、特に絵画や彫刻に深い関心を持つ国である事。

X 出きれば、熱帯や多雨の地域でない事。


Y 寒い地方の方が好ましい事。これは、作品や版木の保管に適する事は勿論ですが、私の個人的文化感に寄るところが大きいのです。 すなわち、文化には、北方系と南方系があり、木版画のような緻密な作業を根気よく続けねばならないものは、どうも、北方系の文化のように思えるのです。

Z イスラムの国は、向かないだろうという事。 これは、以前、或るイスラムの国で展覧会を行った時に、女性像の作品の展示を、辞退するように求められた経験が有るからです。その宗教観から、文化に対する価値観に違いが有るのは致し方ないことですが。

以上の事から、北欧の国が最も相応しいと思ったのでした。

そして、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、そしてデンマークの大使館に私の希望をメールで伝えました。

そして、その、私の要望に対して、ノルウェー大使館が最も迅速に、そして誠実な応対をしてくださったのでした。 これも縁なのだと、その時に強く感じ、ノルウェーに寄贈したいと決めたのでした。丁寧にそして的確な応対をしてくださった、広報部の伊達様には大いに感謝しております。


4. 版画家としての私の位置、私の作品の価値は?

日本の多色刷り木版画は、浮世絵以来、数百年の長い歴史を持ち、その技術の高さ、作品の質は世界中によく知られています。 しかし、近年、伝統的な技法で、オリジナルな制作を試みる作家は数少なくなり、今にもその伝統の継承が途絶えようとしているのが実情です。

私の知る限り、高度な伝統的技術を駆使して木版画を制作している作家は、世界中でも数人。 その中で、現代の美人画、人物風俗画となると、私を含め二人ではと考えられます。 (私の技術については、吉田司氏、木版画一家として世界的に知られる Yoshida Family の後継者で、木版画の権威、は、日本一であると評価しています)

また、私の作品は、江戸時代から明治初期の浮世絵、その後の大正、昭和初期の新版画、創作版画と言う、日本の木版画の歴史の流れの本流に位置し、それをさらに後世に伝えるべき架け橋になるべき立場にあると自覚しています


5. 私の作品、版木等を収蔵する意義は?

T. 下絵、版木、作品を一括して保存する事により、作品を制作する過程が一目で理解できる。 これは、将来木版画家を志す者にとっても、また日本の木版画を研究しようとする者にとっても、大きな意味を持つと信じる。

U. 彫りに於いては、一連の版木を見ることで、そこに施された様ざまな伝統的技術や、新たに創意工夫された新技法を学ぶ事ができ、摺の様子も版面に残された色の様子から、学べる事が多い。

V. 14歳から版画を始めた私の(大学は海洋生物学専攻ですが)、初期から今までのほぼ全ての作品、版木を収蔵する事は、一人の人間がいかにして芸術家に成って行くのかを語る貴重な教材となり得るとも信じます。

以上の事から、私は今回の寄贈品が、来世紀、或いは更に先の将来には、オスロ大学文化歴史博物館の誇るべき宝になるものと信じます。


最後に私の希望、夢をお話しします。 それは、今回の寄贈、展覧会を通して、遠い異国であるノルウェーの地に、木版画の文化が花開く事、そしてノルウェーと日本との文化交流がいっそう盛んになることです。その為にも、今回の寄贈品が、博物館において有効に活用される事を願っています

最後に、ノルウェーは今年(2014ねん) 国連の調査で世界一生活が豊かな国に選ばれました、


29.私の場所  シリーズ「アジアの子供たち」より   ネパール  1998年  21版

  CWAJの奨学金を得て取材した国の一つ。  アメリカンクラブでの、成果報告を兼ねた受賞者展の際、作品に付けた説明をここに引用します。


         私の場所    ネパール

小さな村の石畳の坂道を妻と二人登っていると、横から数人の子供たちが駆け寄ってきて私たちの手をとりました。どうやら村の中を案内してくれるようです。裸足で服もよれよれ、顔も手足も髪もお世辞にも清潔だとは言えません。

一回りして最後に連れて行かれた所は小さな駄菓子やさんの前。そうか、これがお目当てだったのか。「何が欲しいの」と尋ねたら、子供たちの指差したものは日本製のインスタントラーメンでした。

「緑の谷の少女」の24版には及びませんが、この「私の場所」も21版。私の作品では版数は10−15ぐらいが普通なので、多いほうと言えます。(ちなみにこれまでの作品で最も版数が多いのは「落人の里」の26版) 完成まで、3ヶ月ちかくを要しました。 少女達の、どこか得意そうな表情が表現できたかなと、自分では気に入っています。


30.白狐 (姉妹)   シリーズ「白狐」より  1980年 

このシリーズ、“びゃっこ”と呼ぶかたが多いのですが、私は“しろぎつね”と読んでいます。 

私の作品には、 白狐、狐火、狐鏡(きつねかがみ)、狐月夜(きつねづきよ)、狐女童(きつねめわらべ)など、タイトルに“狐”がついたものが幾つかあります。 これらは皆この「白狐」のシリーズに属する作品です。

日本の民話には狐に騙される話が多くありますね。 狐が化けた美しい女性に、村の男衆や旅の若者が騙される・・・・・そんな話が。 若い女性の持つ妖しげな魅力、男には理解しがたい行動と心の内面・・・・その様な諸々を、この民話的世界を借りて表現したのがこの白狐のシリーズです。

私の版画集「花女童」 (はなめわらべ)、タイトルに“狐”の文字は入っていないのですが、やはりこのシリーズに属する作品です。 その「花女童」に、美術評論家の岡田隆彦氏が寄せた一文から一部引用します。

・・・・・・・・・・・能面といい、無表情であることによって見る者に多様な意思表示の解釈を可能とさせる顔といい、また自然の見えるかたちを要約して象徴や記号に近いイメジにまとめる事物の描き方といい、いずれも日本の伝統的な表現につながっている・・・・・・・・・・

また、詩人の鶴岡善久氏も同版画集について論評されました。 これも一部ですがここに引用しておきます。

・・・・・・・・・・少女はつねに未成のエロスに寄りそっていることは自明だが、それゆえにこそ油断は禁物だ。少女は、あの火鼠の皮衣やつばめの子安貝を男たちに強要するような美美しい残酷さを具有している

・・・・・・・・・少女だとて刻々に老いることは必定だ。にもかかわらず彼の少女は永遠に少女であり、処女である。 それは過ぎ去ったものの遺産と、来るべき至福への予感とのいささか緊迫したヴァランスの上にあることはあるのだが

・・・・・・・・偏愛する西洋人形に(ベルミス)という名を与えた詩人がいた。彼の少女たちも裸の<ベルミス>とでも呼ばれるべき、ある種の<超俗性>を有している。 これは彼流のモナリザであり、ヴィーナスであろう。 それはかれの少女たちが、そこここにある浮世絵の美人画もどきに類似しているかに見えながら、そこから最も遠い地点にいることと、深く関わっている。・・・・・・・・


技法的なことを最後にひとこと。 木版、シルクスクリーン、合羽版の混合技法による作品で、特にバックの表現は私が独自に考え出したもの。 


31.晩照順風   シリーズ「風景」より   中国 太湖  1990年  18版41度摺り

 帆船の美しい姿が好きで、これまで何枚か作ってきました。その中でもこの「晩照順風」は好きな作品です。

思えば私は、船は帆船、飛行機はプロペラ機、そして汽車は蒸気機関車が好き。時代遅れと言われながらも頑張っている、そんな所に仲間意識を感じているのでしょう。 

この作品を作ってから十五年ほど後、再び帆船の取材で太湖を訪れました。 でもその時にはもう湖上に帆船の姿を見つけることは出来ませんでした。 


32.イスラムの町にて シリーズ「アジアの子供たち」より ブルネイ王国 1991年 18版

まずはアメリカンクラブでの展示の際に作品に付けた説明文から。


          イスラムの町にて  ブルネイ王国


ブルネイは人口30万人にも満たない小さなイスラムの王国です。でも石油や天然ガスのおかげで王様は世界有数のお金持ち、病院や学校も無料だそうです。

人々は水上に高床式の家を建てて暮らしています。学校へもモスクへも船で行きます。

熱帯の国なので人々は仕事が終わると家族でデパートに涼みに来ます。二、三時間クーラーのきいた店内で過ごし、日も暮れ外も涼しくなる頃、家へ帰ります。

この姉妹もそんな店内で見かけてモデルになってもらいました



バブルの時代の話です。 取引画廊の美人主人から、「ブルネイで個展をやらないか」との話が舞い込んできました。聞くと、「ブルネイは石油の収入で国民は皆豊かな生活をしている。お金持ちも多い」とのこと。 話は続き、「現地に進出している日本のデパートで、ブルネイ初の美術品展示即売会をやれば絶対売れる」とも。

展示する作品は日本画、洋画、版画で、展覧会場の一角を私の個展コーナーにするから、そこで実演もやって欲しいと言うのでした。

ブルネイと言う未知の国で展覧会をすると言うだけでも面白そうな話なのに、更に、私と妻の二人分の旅費も滞在費も全て画廊持ちという好条件。(それだけ、その時代は画廊も景気が良かったのです) その場でお話を受けたのでした。 

でも、その後がたいへんでした。 展示予定の作品写真を、駐日ブルネイ王国大使館に前もって提出、審査を受け、展示の許可を得なければならなかったのです。結果は私の作品の場合、女性を描いた作品は全て展示不可の裁定。 前もって船便で送ってある額縁を無駄にしないためにも、同サイズの別の版画(漢字シリーズ)を急ぎ作ったりもしました。

さて、その“ブルネイ初の絵画展示即売会” 幕を開けてみると、会場は連日大入りの盛況。私の実演にも人が押し寄せました。 日本では経験した事がないような、ある種のお祭り騒ぎだったのですが・・・・

いざ終わってみると、一週間の会期中に売れた作品は・・・・ゼロ! (私のも他のも) 物珍しさと、涼を求めて、人が集まってきていただけなのでした。(正確に言えば、売って欲しいと言われた“物”はありました。私が摺りの実演のために持参した絵の具のセットと、額を吊り下げていた金具!)

美人画廊主に同情したのか、会期の終了後に、デパートの店長以下、役員の方が何点か作品を買ってくださり、収支は何とかとんとんぐらいにはなったのでした。

散々な結果に終わった“ブルネイ展”ではありましたが、救いもありました。自由時間の散策、珍しい食べ物、そして、この絵の姉妹との出会い。 この作品のふたり、版画に仕上がってから気がついたのですが、私の息子達の幼い頃によく似ているのです。

また、この時の実演で摺って見せたのが、今回展示してある「美麻にて」です。 もうひとつ、この時は、ブルネイの日本大使館を表敬訪問。大使に自作の版画「ジャーマンアイリス」を贈呈いたしました。この作品、まだ大使館にあるんだろうか。


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