「我が心の師父・川上澄生」  鹿沼市立川上澄生美術館 講演

 皆さん、こんばんは。 今日、川上澄生についてお話しをさせていただく岡本流生です。 このような場所でお話をするのは初めてのことなので、かなり緊張しています。 オリンピック本番前の浅田真央選手のようなプレッシャーも感じています。 言葉につまる事もあると思いますが、どうかご容赦下さい。

まず、この素敵な美術館を初めて訪れた時に、ふと思い出した一つのエピソードからお話したいと思います。

昔、北原白秋の未亡人が私の伯父に嘆いたそうです。 その伯父は青年期からずっと若山牧水と活動を共にし、牧水亡き後は、その短歌結社の維持に奔走し、牧水の業績をまとめ、沼津に若山牧水記念館を作り上げた人でした。

さて、その未亡人の嘆きですが、こうです。 「牧水さんは幸せですねえ、貴方の様なお弟子さんに恵まれて、それに対して、私の夫、白秋は・・・・・あれだけ沢山の弟子がいたのに・・・・・皆、おれがおれがで、話す事といったら自分の事ばかり・・・・・

皆さんももうお分かりだと思うのですが、川上澄生もまた、幸せな芸術家だったのですね。長谷川勝三郎という弟子との運命的な出会い、そして、ご遺族の愛情もあって、芸術家としての生涯の仕事が、このような詩情あふれる美術館の形で残ったのですから。

これは常々私が思っている事なのですが、やはり、幸せな芸術家の周りには、いつも、素晴らしい語り部、理解者、そして協力者がいるようです。

それでは、私と川上澄生のお話を始めます。 その前に一つお断りしておきたい事があります。それは、尊敬と愛情を込めて、敢えて敬称を付けずにお話しするということです。 恩人でもあり年長もある方々に、敬称をつけない失礼は承知していますが、心の通った、気持ちに沿ったお話しをする為とご理解下さい。

私は昭和24年に北海道室蘭に生まれました。 奇しくも、澄生は、この年に疎開先の苫小牧から宇都宮に戻っています。 今、思い返せばこの「すれ違い」が、その後の私と澄生との関係を暗示しているようにも思えます。

十年ほど北海道で過ごし、父の転勤で私は東京に出てきました。 その後、小学校で転校を繰り返すと言う暮らしの中で、私は周りとなじめず、いつも、北海道に戻りたいと言う気持ちで生活をしていました。

そのような時に、私は父の書斎で、一冊の本を見つけたのでした。 「北海道絵本」 更科源蔵が書いた文章に川上澄生が版画を付けた本でした。手に取って開くなり、私はその版画、文章の素晴らしさに魅せられました。

懐かしいリンゴ園の風景や、サイロ、綿羊、竹スキーや海からの霧にかすむ低い屋並。すずらんの花、そり遊び、ポプラの並木。 何度も何度も、飽かず眺めたのでした 

直ぐに、私はその絵を真似て版画を彫るようになりました。 初めて彫ったのは、絵本の中の、「かた雪」と言う作品でした。 

彫刻刀の入っていた、箱の裏に彫ったのですが、これがその後の長い版画人生の始まりになるとは、当時中学生の私には、思いもよらぬ事でした。

その後、高校時代には、自分なりに描いた、澄生風の北海道の版画を、絵本に採用してもらえないかと、出版社に持ち込んだりもしました。

十代の終わりから二十代の初めになると、私にとっての「川上澄生」が大きく変化を始めます。それまでの私にとっての澄生は、どこまでも北海道絵本の澄生でした。 

それが、当時発刊された「季刊版画」、その後の「版画芸術」を読み始めると、今まで私が知っていたのは、澄生の膨大な仕事の、ほんのほんの一部でしかない事に気付いたからでした。

特に、私の心に強く響いたのは、澄生の詩でした。 棟方志功を版画の道に歩ませた、あの「初夏の風」、そして、率直に、青年の切ない恋心を歌った「顔」 「鬼ごと」。



その影響から、私も版画に詩をつけ、同人誌に発表するようになったのでした。 そこで、同じく詩を書いていた、今の妻と知り合う事になるのですが、 それはまた別の話しですね。

その時代の事で思い出すのは、それまでは学童用の彫刻刀を使っていたのですが、初めて専門家用の刀を手に入れたことです。 連発と言う刀がある事を知ったのもその時でした。それまで、澄生の作品の写真をじっと見つめては、ここはこう刀が入っているなとか、ここは間すきかな、ここは駒すきかな、などと考えながら、技術を盗むように学んでいたのですが、その中で、どうしても分らない、同じようには彫れない謎の部分がありました。


それが、連発と言う刀を知って、ああ、これだったのかと初めて、疑問が氷解したのでした。話しはそれますが、今回のお話を頂いて、澄生の詩を読み返していたときに「顔」の詩からイメージを得て木版画を制作しました。 その版を彫るとき、私はこの連発を使いました。 私なりに、何か今回の事を記念する作品を作りたかったからです。

二十代の半ば、私は初めて版画協会展に入選しました。 恩地孝四郎、山本鼎、と言った、創作木版画の蒼蒼たる先人たち。 その人々が築いた会に入選したことに、私の心は浮き立ちました。 と、同時に、これでやっと川上澄生に会える、初日の懇親会では何を話そうと、期待が膨れ上がりました。

しかし、残念ながら、澄生はその二年前に亡くなっていたのでした。 

澄生の人生と私の人生は、23年ほど重なっています。 しかし、一度も、お会いする機会、お話しをする機会を持つ事は出来なかったのでした。 もう少し知恵と勇気があれば、ご自宅を訪問するなりして、お会いできたのに。 そんな事にも気付かないほど、当時の私は未熟で若かったのでしょう。

三十代から四十代にかけて、私は、パニック障害に苦しみました。人ごみの中へ出て行けない、一人ではバスにも電車にも乗れないという状態でした

その苦しみから、立ち直るきっかけを与えてくれたのも澄生でした。横浜で、川上澄生の展覧会があると聞き、どうしても見たかった私は、妻に支えられ、死ぬ思いで出かけて行きました。それを境に、私は再び、外の世界へ出る事ができるようになったのでした。

長年、版画の制作をしていると、時には行き詰まり、自信を無くし、悩む事もあります。  例えば・・・・・・・・「音楽や映画は強く人の心を動かす、 果たして、版画にもこのように人に感動を与える強い力があるのか?」と。

そんな時にも、「版画には力が有る、なぜなら、お前もその力で救われたではないか」・・・ 私の人生の原点にある「北海道絵本」との出会いの経験が、私に版画の道を歩み続ける勇気を与えてくれたのでした。

五十代の半ば、私は版画協会を退会し、名前も、これまでの本名から「流生」に改めました。「生きる」の一字を澄生から頂いたのは、いよいよ、版画の道に精進する事を自身に誓ってのことでした。

そのころ、澄生の墓前に報告するため、宇都宮を訪れた際、この鹿沼の美術館にも立ち寄りました。 ただ、折悪しく改装中で、作品を見ることはできませんでした。

澄生は、63歳で宇都宮女子高等学校を退職されました。この時の気持ちを、澄生は「これからいよいよ版画家となるなり」と記しています。 芸術家と教師、二足の草鞋を履く暮らしから解放された喜びは、私にもよく分ります。

私は今60歳。 澄生が退職した年まであと三年。 私も、それまでは、小さな塾ではありますが、教壇で教え続けるつもりです。ただ、生活の事を考えると・・・・・妻の言うように、体の続く限り働く事になるのかもしれません。

最後になりましたが、私が日ごろ強く感じている事についてお話したいと思います。それは、人の一生は、様ざまな縁によって決められ、支えられているんだなと言う事です。

青山学院中等科時代の、澄生と合田弘一との縁、その後の長谷川勝三郎との縁、澄生と北海道とを結びつけた小坂千代との縁。 そして、それにつながる私と北海道絵本との縁・・・・・

今日ここで、こうして皆さんにお話をする事ができるのも、吉田司、清子夫妻、そして長谷川勝郎さんとのご縁によるものです。  

人は昔から夜空を見上げては、明るく輝く星星をなぞり、様ざまな星座を描いてきました。今もし、私がこの夜空に、私に縁ある人々を、天空の時間と位置の座標軸の中に、星の如く並べる事ができたら・・・・・どんな形を描くのでしょう。

それは・・・私にも分りません。 ただ一つ、これだけは確かな事は、その中で一際明るく輝く二つの星は、私を版画の道へと誘った川上澄生であり、私に木版画の全てを教えてくださった、吉田遠志だと言うことです。



これで、私のお話は終わりです。

ご清聴、ありがとうございます。     平成22年2月28日          岡本流生


(実際の講演は、少し、話しの内容に違いがありました。 時間の都合などで)





君在りて 我在り    君 種まきて 我 芽生えんとす
芽生えんとして思う 種まきし人を 
その人  川上澄生
鬼ごとの 鬼となりしや 初夏の 初夏の風となりしや