岡本流生 年譜


0歳
   1949年(昭和24年)北海道室蘭に生まれる。

      本名よし美。 戦後の事情により父、嘉一郎 母、愛子の養子として入籍。
      嘉一郎は富士製鉄(当時)室蘭製鉄所勤務

知利別幼稚園
知利別小学校


ラジオの子供番組、漫画の月刊誌、面子、鞍馬天狗、魚とりに夢中になる。

10歳  父の転勤に伴い東京へ移住。

渋谷区立 大和田小学校

杉並区立 和泉小学校

ファーブル昆虫記、シートン動物記、昆虫採集、草野球、貸本屋通い、駄菓子屋の当てくじ、日活映画に夢中になる。
14歳  更科源蔵の文に川上澄生が版画を付けた「北海道絵本」との出会い。
 
      この本に魅せられ木版画を始める。初めの頃の作品は、全てこの本の中の澄生作品のまね。

杉並区立 富士見丘中学校

プラモデル、軟式テニス、ピンポン、釣堀通い、石の収集、テレビの歌謡番組、小鳥の飼育、新田次郎、
森一男、エーリッヒ・ケストナー、花岡大学、バーネット、戸川幸夫などの小説に夢中になる。

同期生のMに初恋

 17歳  初めての木版画シリーズ「絵葉書 北海道」を制作。

       その後出版社へ持ち込むが採用されず。手摺により20部程を自主制作。

都立 杉並高等学校

 ギター、PPMやブラザーズ・フォーなどのフォークソング、バイク、山歩きと石の採集、モジリアニ、
青木繁、ピカソ、 ユトリロ、東山魁夷の絵に夢中になる。

 テレビの青春ドラマで見た海洋牧場に自分の将来の夢を見出す。一年の浪人の後、進学。

20歳  同人誌「少数群」「在」に木版画と詩の発表を始める。
      
      同じく同人で詩を発表していた、あべ・なおを知る。
      シリーズ「Nao」 始まる

創の会

仲間との文学、芸術論議、ユースホステル、ヒッチハイク、アルバイト、ツーリング、寺山修二の文学・
演劇、横尾忠則のイラスト、JUNやVANのファッション、棟方志功の版画、渋谷通いとディスコダンス、
浅川マキに夢中になる。

23歳  あべ・なお(本名 関本澄恵)と結婚。

      大学卒業後は卒論の研修のために滞在していた横須賀で学習塾を始める。
      毎日、版画を彫る生活がスタート。

      長男 誕生。これを機に結婚以来、絶縁状態だった両親と和解。
      澄恵をモデルに多くの木版画を制作。「ピエロ」シリーズ始まる。     

24歳  木版画の大家、吉田遠志に師事。

      月に何回か東京の師のスタジオへ通い伝統的な多色摺木版画の彫り、摺りの指導を受ける。
      これは師の亡くなるまで二十年近く続いた。

      この師と出会えた事は、私の人生の最高の幸運であったと思う。
      師の晩年はよく散歩のお供をし、近所の喫茶店で色々なお話を伺った。

      「今様」 Ukiyoe Today シリーズ始まる。


吉田版画アカデミー

25歳  版画協会展に初出品、初入選。

      次男 誕生。

30歳  アメリカ、カリフォルニアのメンドシーノ・アートセンターで木版画クラスの講師を務める

     「化石」シリーズ
、始まる。

この頃より沖縄をはじめ、各地のアメリカンスクールやデパート、博物館、学校などでの木版画の講習を始める。

31歳  CWAJ現代版画展の25回記念展に於いて。
     
     御臨席の皇太子妃 美智子様(現 皇后陛下)に自作木版画が主催者より贈られ、妃殿下よりお
      言葉を戴く。

32歳  版画集「花女童」を出版。

      この頃は木版、シルクスクリーン、合羽版などの複合技法や新技法の開発に夢中になるが
      多くは失敗。

33歳  初めての海外取材旅行で中国の雲南省へ。

      この年より「アジアの子供たち」のシリーズが始まる。

これ以降、三十代、四十代は、国内外での個展、二人展、三人展、グループ展、海外での公募展、
団体展などで作品を発表。

海外への取材旅行や講習会の機会も増える。

この間、版画協会の会員になる。 神奈川県展版画部門の審査委員長を務める。

パニック障害に苦しむ。

日本画家 菊池契月の作品を初めて目にする。

再びファーブル昆虫記を読み始める。化石、鉱物、古いカメラの蒐集、古墳、古代文明、アジアや東欧の映画、
民族音楽、少数民族の衣装、UFO、未確認生物、温泉巡り、オフロードバイクに夢中になる。

43歳  東京アメリカンクラブでの「KIMONO」をテーマとした版画展に招待出品。

      開会式に御来場された秋篠宮妃殿下 紀子様の御案内役を務める。

46歳  シリーズ「アジアの子供たち」がCWAJ40周年記念、版画家奨励賞を受賞。

      授賞式には皇太子妃殿下 雅子様、御臨席。

      この間、芸術家としての覚悟、その後の人生に大きく関わる二つの出来事あり。
     

49歳  長年心に温めてきた構想「初恋」シリーズに取りかかる。

      これは菊池契月の描く線の美しさに魅せられた私が、版の上でその端正、典雅な線を表現できるのか、
      高い画格を持ちうるのかの挑戦となるシリーズ。制作に集中するため所属する版画協会、吉田アカデミー
      以外への出品を全てやめる事を決意。      

54歳  名前を流生と改める。

      この名前は私の生き方の姿勢を示したもの。また、川上澄生から一字頂く。
      インターネットのホームページで、自作の版画、短歌などの発表を始める。

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日本大学 農獣医学部

56歳   日本版画協会を退会

父・嘉一郎  母・愛子

両親・兄・妹と

知利別小学校・入学式

兄・雄太と

妹・美枝と

メンドシーノにて

日本版画協会

60歳  版木・作品・下絵の全てを寄贈

国立・ノルウェー文化歴史博物館に、版木、作品、下絵の全てを寄贈。(一部、版が彫り終わっていないものや一度も摺った事のないもの、摺りが良い状態の作品が無く刷り直しの必要があるものを除く)

61歳  オスロの文化歴史博物館にて展覧会   2011年

博物館の開館二百周年を記念する版画展・「浮世・過去それとも今?」を開催する。

初恋シリーズは四十八作に。

作品の寄贈について

結婚前後の物語

師・吉田遠志との出会いの物語

北海道の思い出

鹿沼市立・川上澄生美術館にて講演

このHPが縁で、「我が心の師父・川上澄生」の題で講演を行う

講演会の様子

62歳  「懐かしのブリキの玩具」シリーズに取り掛かる

初恋シリーズも15年目に入り、作品も50点を越えました。ここらで少し一休み。

神経をすり減らすような彫りから解放されて、版画を始めたばかりのころのように
楽しく彫りや摺りをやりたくなりました。 

現在7点分凡そ60枚の版を同時進行で彫っています。

            


各地デパートでの木版画展示会で私の作品の贋作が売られる事件が起こる

63歳  南信州の阿智村に移住

40年続けた横須賀の塾を閉め、人口6800人の長野県下伊那郡阿智村清内路に移住。(2013年5月)
版画の制作に専念するのが夢ですが、生活の為には何か仕事もしなくては。

阿智村の学童保育臨時補助員として採用される。

夏場は「ふるさと村・自然園」(県下でも指折りのキャンプ場)にて臨時雇いとして働く

55歳  版画芸術129号「よみがえる伝統木版画」に特集される

オスロでの展覧会・ワークショップ

シリーズ・アジアの子供たち

阿智村清内路

阿智村

第一回国際木版画会議(京都)にて、作品と流生モデル彫刻刀が展示紹介される。

流生モデル彫刻刀

スイスでの蔵書票世界大会の会場に自作書票が特別展示される。 作品はその後フランスで巡回展示された後スイス、フランスの美術館に収蔵される。

グラフ紙「横浜百景」 (企画制作 横浜市) の金沢八景を木版画で担当する。

国士舘大学創立者、柴田徳次郎氏の生誕百周年記念肖像画を同大学同窓会の依頼により
木版画にて制作(限定280部)

タイトルは「岡本流生 初恋の眼差しを彫る」

紀子様と

64歳  地区内の民家に転居 「流生 木版画アトリエ」を構える

      清内路公民館の共催を得て「アトリエ公開」を行う (2014年 2月1日 2日)
 
      地区の内外から190人を越える人が訪れる


     横浜元町 「酒井好古堂」にて版画制作50年を振り返る企画展を行う

        (2月15日ー3月30日)



65歳  「岡本流生・画業50年展」 “きみありてわれあり”を開催

      職場でもある「ふるさと村自然園」の体験館にて。(2014年 10月27-11月3日)
      14歳からこれまでに制作した木版画およそ600点の中から55点を自選し展示。

      この展覧会で、ここ南信州の地でのこれからの活動の大きな足がかりを得る。